ウィトゲンシュタインの論理空間


野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本によれば、『論理哲学論考』におけるウィトゲンシュタインの論理空間というのは、意味を持つすべての命題を寄せ集めたものというイメージで読み取れる。ウィトゲンシュタインは、これらの命題を「事態」と呼んでいたようだ。この「事態」は、まだ現実化されていないものもたくさんあり、そのイメージが人間には想像可能だということで「意味がある」とされているように思う。

この、想像可能な「事態」の中で、実際に現実化されているものを「事実」と呼んで、これこそが「世界」であると定義されている。「世界」というのは、現実と対照されて、その主張する事柄が現実に発見されるものだ。つまり、その命題が真理であることが確認される命題が「事実」と呼ばれる。「世界」は、物の集まりではなく、「事実」の集まりであって、それは真なる命題の集まりであるというのが『論理哲学論考』の主張だ。

この「世界」の定義は、思考の限界を定めるためにウィトゲンシュタインが設定したもので、そう考えなければならない強制はない。「世界」を物の集まりだと考える見方もあってもいいだろう。しかし、そのときはウィトゲンシュタインがやったような、思考の限界を言語の限界として考察するということがうまくいかなくなるだろうと思う。定義というのは、そのようなもので、「世界」をあらかじめそのように設定しているからといって、先験主義(アプリオリズム)に陥っているわけではない。これは、考察の目的を達成するための設定であり、仮説としての出発点だと意識されている。

先験主義というのは、この「仮説」としての出発点という意識が消えうせて、それがあたかも自明の真理のように受け取られて考察が展開するところに間違いが生じるのではないかと思う。この出発点を、仮説として意識することを忘れなければ、その理論展開で得られた体系的知識が、現実に妥当に当てはまるかどうかで、その理論が現実に適用可能かどうかの判断ができる。

理論そのものは論理によって展開されるので、論理が正しい限りにおいて正しいといえる。しかし、正しい理論であっても、その適用の仕方を間違えれば、現実を適切に説明(解釈)することは出来ず、適用において間違いだといわれるだろう。理論そのものの論理的な間違いなのか、それとも現実に適用されたときの、適用条件の受け取り方の間違いなのかは、理論の正当性を判断する上では大切な区別になるのではないかと思う。

さて、ウィトゲンシュタインが語る論理空間というものは、それがあらゆる意味のある命題を含んでいるという前提が確定的に確かめられるものであるなら、現実への適用というものの妥当性を考えることが出来るだろう。また、現実の「事実」というものが確定可能であるなら、その「事態」の中から「事実」を拾い上げて、真なる命題を決定することも出来るだろう。しかし、この二つのことが本当に出来るかどうかには確信が持てない。

ある命題の真偽の確定は、それが意味のある命題である限りでは必ず出来るものだろうか。現実には、真であるとも偽であるとも今のところは確定しないという命題がたくさんあるだろう。しかし将来的にはそれが確定できるということもあるだろう。問題は、すべての命題について、その真偽が確定し、「事態」の中から「事実」を選別できなければ、ウィトゲンシュタインが語る思考の限界というものが確定しないのではないかということだ。

個々の具体的な「事態」については、それが「事実」になるかどうかを考えることは出来る。例えば、円周率が本当はどのような数になるのか、誰もそれを知ることは出来ない。それは無限に続く数字の列であり、しかも繰り返しが現れることがないので、そのすべての数字を把握することは出来ない。だが、「1万桁目が1になるか」という具体的な質問に関しては、それを計算することが出来るので、確定的に真偽を答えることが出来る。

円周率の数字のすべてを把握することは出来ないので、「円周率の数字は、計算する前から確定している」というような命題の真偽を知ることは出来ない。数字は、計算することによって確定するので、計算する前は分からないとしか言えない。だが、ウィトゲンシュタインの論理空間においては、命題のすべてを考察の対象にしなければならないので、すべてをいっぺんに把握した実無限として、この命題の真偽が確定的でなければならないような気がする。

もし命題の真偽が確定しないが、どう見てもそれは意味がある命題であるとしか受け取れないものがあれば、それが現実に成り立つかどうかが決定出来ない。つまり、「事実」であるかどうかが決定しない「事態」としての命題が存在することになる。この命題は、思考においては排除されるのだろうか。このような命題は、思考をしても堂々巡りの展開になり、まさに思考できないという限界を示すものになるのだろうか。

上の命題が、「事実」という「世界」に関わるものではなく、数学だけの中でのものならば、数学は現実との関係を切り離すことが出来るので、「計算によって確定できるものは最初から確定しているものとみなす」というふうに、命題の真偽の判断を定義してしまえばすむことになる。数学は、実無限的な把握を定義によって逃げるということが出来ると思う。実数の連続性の問題なども、現実にそれを確かめることは不可能だ。実数を無限に分割して、隣同士が確かにくっついているという「連続性」を確かめるのは、有限の存在である人間には不可能だ。しかし、実数の連続性をそういうものと定義して、理論の出発点にすることは出来る。数学ならばそのような処理が出来る。

円周率の問題も、計算すれば確定するものは、最初から確定するものとみなしてしまえば、それはある一つの無理数を指すものになり、円周率を実数の中に位置付けることが出来る。問題は、ウィトゲンシュタインの場合は、あくまでも現実とのつながりで「事実」というものを考えているということだ。この「事実」が世界として確定していると考えるなら、ウィトゲンシュタインは、実無限の把握を前提としているように見える。

しかし、「世界」が確定していないものなら、思考の限界を引くことが出来なくなる。それは、「思考の対象にならないものは考えることが出来ない」という、平凡でつまらないトートロジーを語ることになってしまいそうな気もする。思考の対象にならないものを確定することが、思考の限界を確定することにもなるのだが、「考えられないものは考えられない」と言ったのでは、何も語っていないに等しくなる。

すべての意味のある命題の真偽は確定しているのだが、今の段階ではそれが技術的な問題で確定できないだけだと解釈することは出来る。しかし、この解釈が正しいかどうかは保証できない。この解釈は、すべての命題に対するものになっているので実無限の把握を要請する。経験的に確かめることが出来ない。科学のように、その対象を絞り込んで、任意性を元に可能無限の範囲で「すべて」を確定しようとすることも出来ない。「すべて」の範囲があまりにも広すぎるからだ。

これが、そのような「世界」を設定するという仮説として提出されているのならば、数学と同じように、理論の出発点であるという意識だけで処理できると思う。しかし、ウィトゲンシュタインの主張は、あくまでも現実に我々が生きている「世界」について語っているようにも思われる。

不確定性原理と呼ばれる量子力学の問題は、命題の真偽が、世界を把握する前にすでに決定しているものかどうかに疑いを持たせる。不確定性原理によれば、一つの光子と呼ばれる存在が、2つのスリットの穴のどちらを通過したかということにおいて、それは観察によって初めて決定されるという解釈をする。観察をする前には、どちらを通るかということが決定出来ない、ということが不確定性原理の「不確定」たる所以だという。

これは、人間には決定出来ないので「原理」という呼ばれ方をしているのだと思われる。この、決定出来ない命題に関しても、それは人間の能力の限界を示すだけであって、本当は決定されているのだと考えるのかどうかは、世界観の問題として大きいのではないだろうか。そして、ウィトゲンシュタインの「事実」と「世界」の概念は、これが決定されていると考えなければうまくいかないのではないかとも感じる。

命題の真偽は、それを実際に確かめることが出来るのなら確定する。その確かめる方法を持たない命題に関しては、その真偽がわからないときでも、それはすでに決定しているという前提を立てられるだろうか。それが純粋に技術的な問題であるなら、それはそのように考えてもよさそうな気がする。将来確かめることが出来るようになれば、それは本当に確定するのであるから、それは知られる前からすでに確定していたのだと考えてもよさそうだ。

しかし、不確定性原理のように、分からないということが原理的なものである対象については、永遠に知る方法がないことになる。どれほど技術が進歩してもそれは確定できない。そういうものも、果たして、本当は確定しているのだという前提で考えてもいいものになるだろうか。

不確定性原理が、永久に知りえないというのは、観察することが光子の運動に影響を与えてしまうからである。つまり、観察したという条件のもとでの光子の運動は確定するけれども、観察しないときの動きは、計算によっては知りえないということだ。それは、確率的に知ることしか出来ない。確定はしないのである。

観察しない時は、人間が認識していないときなのであるから、考察の対象を、認識しうるものに限るということにすればこれは処理できる問題になるかもしれない。ウィトゲンシュタインの「世界」を、認識しうるものに限れば、「世界」は確定するだろう。しかし、その際は、何が「認識しうるもの」なのかという問題が起きてくる。

「認識しうるもの」に思考の対象を限定すれば、思考の限界を引くことも出来るが、その時は、やはり「認識し得ないもの(考えることの出来ないもの)は考えることが出来ない」というトートロジーになってしまう。ウィトゲンシュタインの哲学テーマは、どこまでも堂々巡りしていきそうなものになってくる。そういうものは、思考しても無駄だということなのかもしれないが、それに一つの決着をつけるのが先験主義(アプリオリズム)というものかもしれない。

経験によって決定出来ない事柄(すべての命題の真偽が決定しているというようなこと)を、すでに成り立っているものとして設定してしまう先験主義がもしうまく現実を説明するものになっていれば、究極的なテーマにおいては先験主義が正しいこともありえるのではないかという気もしてくる。現実経験を元に判断しなければならないような、具体的な現象を語るときには、無前提に正しいとされるような前提を置くことは「先験主義的」な間違いになるだろうと思う。しかし、具体性を捨てた、究極の抽象世界の哲学テーマに関しては、先験主義でなければ展開が出来ないテーマもあるのではないだろうか。

カントの哲学には先験主義が現れてくるらしい。カントが扱っているテーマが、究極の哲学的テーマであり、先験主義によってしかそれが解決できないようなものであれば、先験主義というものの一つの側面をもっと深く考えることが出来るのではないかと思う。先験主義というものも、それが先験主義であるというだけで否定されるものであるのかどうか、究極的な哲学的テーマとの関連で考えてみたいものだと思う。