「存在」という属性


野矢茂樹さんは直接書いていないのだが、「存在」という属性をどう捉えるかというのを、単純なものと複合的なものという発想からの応用問題として考えてみようと思う。野矢さんの解説によれば、ウィトゲンシュタインが真に存在するとして考えたのは、指し示すことが出来る単純性を持った「対象」に当たるものだけだったように思われる。この真に存在するものが示す事実から切り出されるものが「対象」であり、それを表現する言語が「名」と呼ばれた。

「名」は対象の像として存在するので、それが「名」として存在するためには、本体である「対象」の存在を必要とする。この「対象」の存在は、「名」の前提となるもので、存在そのものを何らかの方法で証明したりすることが出来ない。存在そのものに関しては、ウィトゲンシュタイン的な表現を使えば「語りえぬもの」ということになるのではないだろうか。野矢さんの表現を借りれば、それは「示されるもの」と捉えなければならないのではないかと思う。

存在が証明されないものであるなら、それは経験的なものではなくなる。つまり経験を越えたものとして、ア・プリオリ(先験的)に所与のものとして我々の前に現れていると受け取らなければならない。このア・プリオリ性を直感的に納得するのはかなり難しいのではないかと思う。思い込んでいれば存在することになるのかという問題があるからだ。

『反デューリング論』の中だっただろうか、エンゲルスが、「プディングの証明は、それを食うことにある」というようなことを書いていた。これは、プディングがあるということを確かめるには、それを食うという実践を行うことによって示されるということだと思う。プディングが見えるということは、そこに存在していることを示すことでもあるのだが、それはもしかしたら幻覚かもしれない。しかし、食うという実践は、視覚のほかにもさまざまな感覚を動員して、プディングに関する事実を見出すことが出来る。そこに事実が存在するということが、プディングの存在を前提としていることなので、事実の存在がプディングの物質としての存在を示していると考えられるのではないかと思う。

僕は、この実践が存在の証明ではないかと以前は考えていた。しかし、デカルト的な徹底した懐疑論の観点からは、すべての感覚には錯覚が起こりうる可能性がある。その可能性を消せない限りは、感覚から得られた事実は、感覚が正しい限りという条件を付した仮言命題に依存する真理ということになる。証明と呼ぶにはある種の弱さを感じる。それは証明ではなく、前提である存在を示すものと受け取り、存在そのものは「語りえぬもの」だと理解したほうがぴったり来るような感じがする。

パラドックス大全』(青土社)という本には、「水槽の中の脳」という想像が語られている。我々の感覚というのは、すべて外部の刺激を電気信号に変えて脳に送ることによって認識される。だから、どのような電気信号がどのような、脳における像をもたらすかが分かれば、電気信号を送ることで脳に幻覚を見させることが出来る。物質的な存在は何一つなくても、それが存在しているような感覚を持たせることが出来る。

これは、映画「マトリックス」の世界のような想像だが、このような世界に我々が住んでいるとすれば、我々にとっては何が存在するかという問題は、問題として立てようがなくなってくる。そこには、そもそも存在というものが物質的な意味ではないのである。存在しているのは、脳と電気信号のみと考えられるが、それは外から眺めている人間にはわかるが、その「マトリックス」的な世界にいる人間には分からない。

「水槽の中の脳」という想像は、論理的には肯定も否定も出来ない。その証拠となるものが何もないからだ。まさに、存在が確かめられないので論理的な判断が出来ないということになるだろうか。論理的な判断の前提としても、何らかの存在があることが絶対的に必要なのである。

まったく存在というものがない世界というものも想像することは出来る。その世界では、「対象」になる物がないのであるから、「事実」として捉えられるものは何もなくなる。従って、そのような世界を基礎とした論理空間には何も見つからず空集合になる。「事実」のない世界には可能性すらない。思考を展開しようにも、そこでの思考というものがどういうものであるかも分からない。

僕が、このように思考を展開できるということは、実は何らかの存在があることが前提とされて、それがあるからこそ思考が展開できるともいえる。まさに、存在を基礎として実践がされるのだというエンゲルスの言葉が実感として感じられる。実践は、存在の証明としては弱さがあるが、存在を示すものではあるだろう。

「対象」について何かを考えることが出来る・思考を展開できるということは、「対象」の存在を示すものであるが、それはウィトゲンシュタインによれば、単純なものである「対象」の存在を示すものであって、複合概念として定義されたものの存在を示すものではないのではないかと思う。もし、複合概念として定義されたものまでも実体として存在していると考えると、それは観念論的妄想・観念論的幻覚ということになるのではないか。複合概念の思考は、存在を示すものではなく、論理による思考の展開を示すもの、すなわち論理を示すものとして現れるのではないだろうか。野矢さんは、論理というのもまた証明されるものではなく・語りえぬものであって示されるものだという指摘をしている。

科学の歴史ではフロギストンという実体が想像されたことがあった。これは、現象を分析して、そこに何か指し示すことの出来る物質を見つけて、これがフロギストンだというふうにして発見されたものではない。物が燃えるという現象を観察したとき、物質の中にフロギストンというものが含まれていて、燃焼の際にそれが放出されるという想像から生まれてきたものだ。つまり仮説として提出されたものであり、それが存在するかどうかを確かめてから名付けたのではなく、フィクショナルに設定された実体だった。

後に、燃焼は、酸素との結合の現象であることが論理的に整合性を持って説明され、フロギストン説は否定された。これは、フロギストンというものの存在を否定したものになるだろうか。もしそうであれば、存在が否定できたということは、存在も証明できることになってしまう。これをどう解釈すれば、ウィトゲンシュタイン的な世界の構造と折り合いがつけられるだろうか。

僕の解釈は、フロギストンというのは、現実の実体を指し示して得られた概念ではないので、「対象」を表す「名」ではなく、複合概念として定義されているのだというものだ。複合概念として定義されているので、それが否定されても存在そのものの否定にはならないという解釈を僕はしている。だから、フロギストンの存在そのものは、それを考察して思考が展開できたからといって、そこに存在が示されているとは考えない。単純なものである「対象」のみを実体的な存在として捉えるというのは、ここに論理的な整合性があるからではないだろうか。

フロギストンは、あくまでも想像の中で作り出したものだ。現実に存在していると感覚が捉えて、その属性を見つけたものではない。想像の中で作り出したフロギストンは、もしフロギストンであればこういう性質がなければならないという設定が論理語「かつ」「または」「ならば」などによって作られる。そのような定義がされるものとして、複合概念として捉えなければならないのではないかと思う。

フロギストンが単純なものである「対象」であれば、フロギストンと呼びたい物質を持ってきて、それをさまざまな角度から眺めて、このように見えるということを拾い出して「事実」を見つけることが出来る。その際は、フロギストンというものの存在は、それが「対象」であるということで前提されている。それに対して観察し、属性を見つけることができるということでフロギストンの存在は示されている。しかし、フロギストンはこのような「対象」という存在ではない。

フロギストン説が否定されたというのは、フロギストンの概念を語る複合命題を構成する単純な「要素命題」(単純な「対象」を語ることのみで成り立つ命題・「名」の結合によって得られる命題)の一つが事実ではない、という解釈がウィトゲンシュタイン的なものではないかと思う。そして、その解釈が妥当だという気が僕にはする。フロギストン説の否定は、命題の否定という論理の範囲のものであり、存在の否定ではないという解釈が出来るので、ウィトゲンシュタイン的な世界の構造と折り合いがつけられると思う。

フロギストン説の否定は、存在の否定ではなく、説という命題の否定なのだから、命題を作り変えることで正しいものに到達する。それが酸素説というものではないかと思う。これによって燃焼という現象が正しく説明できる命題になったのだと思う。もしフロギストン説の問題をあくまでも存在の問題として捉えようとすれば、燃焼という現象の存在までもが疑わしくなって来たりしないだろうか。フロギストンがないのであれば、燃えるという現象も存在を基礎に持たないものになり、ただそう見えるだけのものであって幻覚に近いものだと思われたりしないだろうか。

沖縄における集団自決の問題も、それが存在の問題であると捉えれば、どうしても単純な存在である「対象」という実体の存在に言及しないわけにはいかない。そうすると、フロギストンと同様に、そのような単純な「対象」を見つけられないということになってくるのではないか。存在の問題として思考を展開すれば、「沖縄「集団自決」をめぐる事実と政治」というエントリーで語られていることが正しいという感じを持ちたくなるのではないだろうか。

だが、これを存在の問題ではなく、複合概念の定義の問題だと捉えれば、「軍による強制」という概念をどう定義するかという問題に問題を転回できる。これは、思考を展開するには、僕は「強制」という概念を使うよりも「責任」という言葉を使ったほうが正確になるのではないかと思っている。

たとえ直接的な「強制」がなかろうと、当時の政治・教育・情報における主導権をすべて握っていた軍が、アメリカ軍の攻撃に際して絶望的になっていた沖縄の人々に、玉砕という自決の意志を促したということは十分考えられることである。陸軍大臣を軍が拒否すれば内閣が総辞職しなければならないような政治情勢の下では、政治に関する軍の責任は重くなるだろう。軍国主義的な教育が行われているか強い監視の元に教育の統制をしていた軍は、教育に関しても大きな責任がある。そして大本営発表として情報を統制した軍は、情報の管理に関しても大きな責任がある。

このような責任を合計して考えれば、沖縄で、たとえ軍の強制という直接的な証拠がなかろうとも、集団自決に住民を追い込んだということに対して軍が大きな責任を負うものだということは、論理的な帰結として得られるのではないかと思う。それはかなり明らかな論理的帰結であると思われるのに、なぜことさら「強制」ということにこだわるのかというのが僕の疑問だ。これは、むしろ大きな観点からの軍の責任をぼやけさせるのではないか。

「強制」というのは、それがもしあるのなら、それだけから軍の責任を帰結できるので責任追及としては分かりやすい。プロパガンダとしては有効性を持っている。しかし、「強制」という複合概念を作るときに、一つでも否定できそうな命題が入り込んでくるようなら、それは命題として否定される可能性が高くなる。証明すべきは、「強制」の有無という存在の問題ではなく、軍がどれだけの責任を負わねばならないかという、責任という判断の問題ではないだろうか。それならば、存在の問題も、より単純な「対象」に還元できるのではないかと感じる。