集団自決という現象のディテール(細部あるいは末梢的なこと)


夜間中学には日本語学級という、日本語を勉強するクラスがある。今でこそ、そこは外国から日本へ来た人々(結婚で来たり、再婚の母親に呼び寄せられたり、仕事で来日した父親の家族として来たり、その理由はさまざまである)が、日本語の授業を受けるために必要な日本語の会話を学習するためのクラスになっているが、発足のころは違っていた。

日本語学級が発足したころは、戦後長いあいだ戦地になっていた中国などから、さまざまな事情で帰れなくなっていた人々が引き揚げてきたことがきっかけだった。いわゆる「中国残留孤児」という呼び方をされていた人々は、幼いころに中国に取り残されてしまったため、日本人でありながらまったく日本語が話せない・理解できないという状況にあった。

これらの人々が日本へ引き揚げて、日本で生活を始めたときに、生活のために必要な日本語を学ぶ場所がなかった。そこで、夜間中学がとりあえずそのような日本語の教育機関として選ばれ、日本語学級というものが設置された。だから、夜間中学の日本語学級は、そもそもの発足のきっかけは、引揚者の日本語学習の問題からであり、教科学習のための基礎的日本語を学習するという問題ではなかった。そのような特殊な事情のある夜間中学校の日本語学級では、中国からの引揚者がたくさん学んできた。その関係者の一人であるNさんの体験談を聞く機会が先日あったのだが、その中で旧満州における「集団自決」の問題が語られていた。

「集団自決」という現象を、単純に多くの人が「集団」で「自決」をしたという現象だと理解するなら、それは単純な「事実」の問題になるだろう。それは多くの人に語られ、しかもそれが「事実」であろう事は疑いがないと判断されている。しかし、それを単純な現象と捉えるのではなく、そこに含まれている意味を考えるなら、目に見えるものだけではなく、直接は見えないけれど、何らかの関係があるものを関係の糸をたどって、そのつながりというものを考えなければならない。

なぜそのような悲惨な出来事が起こってしまったのか。その必然性や因果関係などは妥当性のあるものが見つかるのだろうか。また、そのような行為が、自決した人々の主体的な選択ではなく、追い込まれて選ばざるを得なくなってしまったものだと理解されるなら、その追い込んだものの責任はどうなるのか、という問題もある。単純な目の前の「事実」を単に受け止めるだけでなく、このような思考を進めるには、その「集団自決」というものに関係するあらゆるディテール(細部)を見なければならない。しかし、ディテールという英語には、「末梢的なこと」という意味も含まれているらしい。目に見えない深いつながりを見るには、細部というディテールを見る必要があるが、それはもしかしたら本当にはつながっていない末梢的な細部であるかもしれない。

ディテールにこだわることは、末梢的なものを本質的なものと勘違いする誤謬に陥る危険性はあるものの、まずはディテールを見ないことには考察がスタートできないということもあるだろう。だが、ディテールというのは、いざ調べてみようとするとなかなか語られていないものだ。ディテールではない、ある種の結論めいた主張は巷にあふれているものの、その結論を導く材料としてのディテールは少ない。

これは論理的にはそのような難しさがあることは十分予測できる。ディテールとして語られる細部の「事実」は、直接結論めいたことには結びつかないので、論理的には、ディテールをたくさん集めて、その構造をまずは再構築して結論めいたことを導く論理を構成しなければならない。それに比べて、まずは結論めいたことをぽんと提出しておけば、実はその結論がある種の前提になって、他に言いたいことがその前提から論理的に導かれてしまうということがある。実は、その結論として提出された前提は、そこから本当に導きたいもう一つの結論を含みこんでいるものになっていて、論理的には証明すべき当の事柄が前提にされているというトートロジー(同語反復)的なものになっていることが多い。

日本の戦争責任において、軍隊は諸悪の根源のように言われ、軍隊のイメージをそのように設定しておけば、あまりディテールに言及せずとも、日本軍ならそのくらいの事はやるだろうということが演繹的にそのイメージから導かれることが多い。これは、その判断が正しいときもあるだろうが、「事実」の確認のためには、演繹的な思考だけではなく、ディテールを元にした帰納的な判断も一度はしておく必要があるのではないかと思う。

「集団自決」に関しては、沖縄の場合は軍の強制(これは直接の命令と解釈されているように僕は感じる)があったのかどうかというディテールが問題にされている。しかし、このディテールは単純な「事実」として確認されることがたいへん難しいので、日本軍というものの本質的性格から、そのようなことがあってもおかしくないというイメージで語られているように僕は感じる。確実な物的証拠が出てくれば、単純な「事実」として確定するだろうが、それはきわめて難しいのではないかと思う。

日本軍が直接命令を下したというのは、「事実」としては単純に思われる。命令をした個人や、命令書というような客観的存在があるならば、それを見出すのはた易いと思われる。しかし、そのような単純な「事実」はいまだに発見されていないので、直接的な命令が「あった」のか「無かった」のかは決定していないのではないだろうか。だから、軍の「関与」あるいは「強制」という問題を、直接の命令の有無という問題にしてしまえば、その証拠がなかなか見つからないことからその存在が疑わしいということになり、「関与」「強制」ということまで疑わしいということになってしまう。

沖縄の集団自決における「強制」の問題は、「新しい歴史教科書を作る会」が主導しているらしいが、戦術としてはなかなかうまいところに目をつけたという感じがする。なかなか単純な「事実」が見つからず、単純な「対象」の発見が難しい問題は、複合命題として考察しなければならないのに、それを単純な「要素命題」の問題にしてしまえば、そのような「要素命題」を構成する「対象」はないというような論理展開に持っていくことが出来るからだ。

沖縄における集団自決の問題は、「関与」あるいは「強制」という言葉の定義の問題が一番大きな問題だと僕は思う。しかし、巷でされている議論を見ると、軍の直接的命令が存在したかどうかということになってきているように感じる。「関与」あるいは「強制」が、その言葉の定義の問題であれば、その定義という条件の違いから、結論としての「あった」「無かった」は、前提の違う仮言命題の結論として両立しうるものになる。つまり弁証法的な「矛盾」の現れと解釈できる。もし「作る会」的な定義の元で論戦をするなら、それに反対する立場の論理は極めて不利なものになるのではないかと思う。

満州における「集団自決」では、幸か不幸か、軍の直接的命令という強制がなかったことが明らかになっている。それは物理的にそのようなことが出来ない状況にあったからだ。軍が住民に命令したくとも、その軍がすでに満州にはいなかったということが「事実」として確認されている。そこに存在しなかった軍が命令を出すことはできないという物理的な理由で、満州における「集団自決」には、軍の命令があったか無かったかという問題は生じていない。それは「無かった」ということしか言えない。

これは論理的な判断であるからこそ「無かった」と断定できる。いくら探しても見つからないという、経験的・帰納的な結論は断定することは出来ない。「無いかもしれない」という主張にとどまる。「無かった」という断定は、<物理的な存在は、同時に二つの場所(空間)に存在することは出来ない>という法則性を認めるなら、この命題と、そのときに日本軍が満州ではないところにいたという肯定判断との二つの命題から、形式論理の結論として「無かった」という断定が出来る。単純な「対象」があるということは、それを指し示すことで言えるが、無いということは、論理的な結論でなければ断定することは出来ない。

「集団自決」というのは、一般民衆が直接地上戦に巻き込まれるという、沖縄と満州という特殊な地でのみ起こっている。地上戦に巻き込まれなかった日本本土の人々は、空襲の恐怖は味わった人がいるが、「集団自決」に追い込まれることは無かった。それを命令する軍人もいなかった。

「集団自決」という現象に関しては、このような特殊な状況にあった人々の心の動きを整合的に説明しうるようなディテールを求めることが必要ではないかと思う。「集団自決は、軍の直接的命令が無ければ起こらなかった」という判断にはあまり説得性が無い。なぜなら、軍の命令が無いことがはっきりしている満州で「集団自決」が起こっているからだ。軍の命令という直接的なきっかけが無くても「集団自決」は起こる。それでは、「集団自決」が起こってしまう、最も本質的で重要な要素はどこにあるのか。末梢的でない、本質的なものを示すディテールはどんなものであるのか。

そのような本質が求められたとき、軍の命令というものが、その本質に対してどのような位置を占めているのかが分かるだろう。それが判断されたとき、軍の責任というのももっと明確になるのではないだろうか。満州では、たまたま軍が命令する可能性が無かったが、もしその可能性が存在したら、軍は「集団自決」の命令を出すだろうか。そしてまた、軍が「集団自決」の命令を出せば、さらに悲惨な結末を迎えると言えるだろうか。そのような考察に肯定的に答えるか、否定的に答えるかで、日本軍の責任というものの判断も違ってくるのではないかと思う。

さて『集団自決 棄てられた満州開拓民』(坂本龍彦・著、岩波書店)という本には、満州における「集団自決」のディテールがいくつか語られている。そのディテールからいったいどのような意味が読み取れるかというのを考えてみたいと思う。具体的な記述は次のエントリーで考察してみたいと思うが、記述にはいくつかの種類があるように思われる。

一つには主観と客観の違いがあるように思われる。状況や事実を忠実に記述している客観性の高いものをディテールとして選び出して考えたいと思う。そのときに、どのような感情を持ったかという記述も貴重なものではあるだろうが、それに共感あるいは反発することで、ディテールの受け取り方が違ってくる可能性がある。ディテールは、感情抜きにその事実性だけを見ることが重要ではないかと思う。

また、ディテールの内容も、集団自決の現場そのものを語るディテールと、それ以外の背景を語るディテールに分かれるのではないかと思う。現場そのものを語るディテールには、おそらく軍隊の影は見えないのではないかと思う。軍隊は、直接にその場にはいないからだ。その背景を語るディテールから軍の「関与」という問題が読み取れるのではないかと思う。

ディテールというのは個別的な事実であるから、ここから一般的な結論を引き出すのは論理的には危険性があるものの、ウィトゲンシュタインが展開したように、現実世界の理解は、まずは個別的な経験という「事実」から出発して、そこから論理の世界を構築してまた現実に戻っていくという道筋を歩む必要があるのではないかと思う。これは、弁証法的にいえば、現実を否定して論理の世界に向かい、それをもう一度否定して現実に帰るという「否定の否定」を実現することなのではないかと思う。そうしたとき、本当に深い認識に到達することが出来るのではないだろうか。