支配という現象の論理的考察


今週配信されているマル激のゲストは岡田斗司夫さんで、ダイエット問題から入ったその話はたいへん面白いものだった。岡田さんは、100キロ以上あった体重を50キロも減らしたダイエットで有名になったが、その方法論がたいへん論理的で説得力のあるものだった。岡田さんという人は、その話の展開が非常に論理的な説得力を持った展開をする人だと感じた。

さっそく岡田さんの本を求めて読んでみようと思って本屋へ行ったのだが、ダイエット関係の本は売り切れていて手に入らなかった。代わりに『「世界征服」は可能か?』(ちくまプリマー新書)という本を手に入れた。これがたいへん面白かった。論理的な書き方をしているのでたいへん分かりやすく、そこにちりばめられたユーモアたっぷりな表現が、飽きさせずに最後まで読ませるという効果を生んでいた。

面白おかしく軽く読ませるこの本だったが、そこに書かれている内容は決して軽いものではなく、「支配」という現象の本質をついているものではないかと感じた。「世界征服」などというものは、空想的な物語の中にしか登場しないから、笑い飛ばしてしまえるようなものだが、現実に「侵略」と呼ばれているような「悪」は、この「世界征服」という喜劇に近いものがあるように感じる。「世界征服」なら非現実的な、ある種のユーモアを感じて笑い飛ばせるものが、「侵略」という現実は悲惨でまじめに向かい合わなければならないものになる。しかしその本質はかなりよく似ている。

「侵略」という現実を笑い飛ばそうという不謹慎な意図はないが、目じりを吊り上げてそれを糾弾するという反対の極の対応も何か違和感を感じる。「侵略」のように見える現実も、「世界征服」としてフィクションの中に描かれる荒唐無稽さの勘違いが含まれているのではないかという感じもする。結果的に「侵略」になってしまった行為の責任を問われたとき、その行為者はほとんど「侵略の意図はなかった」というような言い訳をするのではないかと思う。

これは結果としての「侵略」を認めないごまかしのように受け取る場合が多いが、実は本気で「その意図はなかった」と当事者は思っているのではないかということが、岡田さんの本を読んでいると感じられるようになった。世界征服を企てるような「侵略者」は、極悪非道な人間ではなく、むしろまじめで正義感が強いタイプの人間が多いのではないかとも感じる。

いじめの問題において、正義感がいじめを生むという指摘をしていたのは、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんだった。「争いの元に正義あり」というような格言のようなものもよく語っていた。この正義は、被害者からは勝手な言い分のように聞こえるが、論理的にはそのような正義があるからこそ悲惨な結末に向かって事態が展開してしまうのではないかと思う。この正義は、それを単に否定するだけでは、現実には消えていかないのではないかと思う。その実体を正確に捉えて、その正義の間違いがどのような方向へ進むかという法則性を認識しなければならないのではないかと思う。それを岡田さんの本は、ユーモアたっぷりに面白く教えてくれるのではないかと思う。

この本では支配者を4つのタイプに分けて考えているのだが、それぞれに支配者が、単なる悪人ではなくそれなりに理解と共感が可能になるようなタイプとして考察されている。「征服」や「支配」という現象は、結果的には虐殺などの悲惨な出来事を生む場合があるとはいえ、その意図に関しては決して「悪」だけではないという理解が出来る。この理解は、「征服」や「支配」を容認するということではなく、意図が悪くなければその事を押し進めていいのだという勘違いをしないために、「征服」や「支配」の意図が本来は悪いものではなかったというのを理解することが大切ではないかと思う。

悪意を持たなくても悲惨な結果をもたらしてしまうというのを、社会の法則性として認識することが大事だと思う。アメリカという国を考えるとき、岡田さんが語るタイプの一つにそれがよく当てはまるのを感じる。アメリカの行為は、ベトナム戦争においても、イラク戦争においても結果的には「侵略行為」になっている。しかしアメリカ自身(アメリカ人自身というべきだろうか)は、自らの行為を決して「侵略」だなどと思ってはいない。それはむしろ正義の実現だと思っているだろう。アメリカの正義感の強さが結果としての悲惨な「侵略」を生んでいる。この「侵略」は、結果を指摘して非難するだけでは、当のアメリカ自身がそれを理解することはないのではないか。

日本における第二次世界大戦の結果としての「侵略行為」も、その当事者である旧日本軍の関係者にしてみれば、自らの努力と正義を一方的に否定されているように感じるのではないかと思う。日本では、「勝てば官軍」ということばがあり、「負ければ賊軍」という言葉もある。結局戦争の結果で非難されるのは負けたからではないかという思いが強くなるだろう。負けたのがいけなかったので、勝ちさえすれば自分たちの正義は証明されるという受け取り方にもなるのではないかと思う。右翼といわれた故黛敏郎さんなどは、そのような考えを公言していた。

僕は、勝ち負けよりも、正義の思想を一方的に押し付けようとした「支配」に問題があるのだと思う。その勘違いを深く認識しなければ戦争責任の問題も多くの人が納得するようなものが提出できないのではないかと思う。正義の思想を押し付けて実現しようとする「支配」や「征服」は、その実現の達成のためには実に効率の悪い方法であることが岡田さんによって指摘されている。これはたいへん説得力のある指摘だ。実に論理的にすっきりしている。このような認識を多くの人が持てば、戦争責任に関する不毛な議論のいくつかは解消されるのではないかとも期待できる。結果だけをぶつけ合って、その結果の解釈の違いを議論するような不毛な議論を、そこに至る過程の正しい理解の上で、その失敗の過程を繰り返さないような教訓として歴史を学ぶという議論にしていけるのではないかと思う。

さて岡田さんは、支配者のタイプを次の4つに分けて考えている。

    A:魔王タイプ …「正しい」価値観ですべてを支配したい
    B:独裁者タイプ…責任感が強く、働き者
    C:王様タイプ …自分が大好きで、贅沢が好き
    D:黒幕タイプ …人目に触れず、悪の魅力に溺れたい

これはとても面白い発想だ。このうち、Aの魔王タイプとCの王様タイプの支配者は、現実にはそのモデルを探すのが難しい。フィクションの中のヒーローと戦う「悪」にこの種のタイプが描かれることがほとんどではないかと思われる。

魔王タイプの支配者は、自らの価値観から来る正義の観念が強すぎて、ほとんどすべての人間が許せないものになってしまう。このタイプの支配者は、従って人類絶滅を意図するような「悪」として描かれることが多い。しかし、支配者が、支配しようとする人類を絶滅させてしまうということは、支配という言葉の意味に反した行為になってしまう。だから、現実にはこのようなタイプは成立しにくいだろう。

だがこの魔王タイプの人間がもしいたならば、現実にはもっとも危険な存在になる。魔王タイプは、自分以外は信用できないと考える孤立した存在になる。自分以外の人間は、正しい価値観を持っているとは思えないのだ。そういう相手は、生きている価値がないという判断をする可能性があり、相手を殺すことをためらわない心性を持つ可能性がある。「正義」というものが、誰にも当てはまる普遍性を持っているものではないので、このように強すぎる正義感を持った人間は、社会にとって非常に危険な存在だといえるだろう。救いは、この種のタイプは孤立しているので、強大な権力を持って社会を脅かすという可能性が低い点だろうか。

王様タイプも現実には可能性の低い支配者タイプだ。これは、王様タイプのように自己中心的でわがままな人間は、それを支える人間に恵まれるということが考えられず、能力のある人間に利用されるか、利用価値がなくなれば、その支配者のほうが抹殺されてしまうということになるからだ。岡田さんによれば、このタイプの支配者は現実には「北朝鮮」の金正日くらいしか見当たらないそうだ。

現実に存在する支配者としては、Bの独裁者かDの黒幕かということになる。これは実際のモデルを発見するのも容易ではないかと思う。ヒトラーは典型的な独裁者タイプの支配者だが、岡田さんによれば、このタイプの支配者は、有能すぎて過労死にいたるという。とにかく、すべての判断を自分がした方が正しい判断になってしまうので、四六時中支配することに身を捧げていなければならなくなる。また、支配されるほうの人間たちも、常に有能な独裁者に指示を仰ぐようになる。

この独裁者タイプは、それに心酔するような支持者も生むので、「支配」や「征服」という言葉の正しい定義にもかなうのではないかと思う。しかしそこには確かに「支配」という現象が見られるが、独裁者の立場から見てみると、それは「支配」と呼ぶよりも、未熟なものたちを「指導」しているという感じに見えてくる。恣意的に自分の意図が実現されるのではなく、有能であるがゆえに、これが正しいと見通したことが実現されるだけのことになりそうだ。「支配」という現象の弁証法性がここには見られるのではないかと思う。

この独裁者タイプは、権力を持つまでの過程では、ほとんど正しい判断をすることが出来て大衆の支持を得て権力を確立する。しかし、常に正しいことを行えるかどうかということが、現実の人間の行動の難しさだ。独裁者が、もし判断を間違えたとしても、それを指摘できるだけの人間は、権力を確立した後にはもはや側近にはそのような人間はいなくなるだろう。たった一つの失敗のきっかけが独裁者の権力を消し去るのに働くだろう。歴史はそのようなことを物語っている感じがする。

板倉聖宣さんも、社会主義国家が崩壊したときに、その国の独裁者について、社会主義国家が発足した当時はもっとも有能でいい人だったに違いないということを語っていた。独裁者というのは、そういうタイプの支配者ではないかと僕も思う。しかし、有能であるがゆえにすべてを自分で背負って判断することに疲れ、やがてその判断に間違いがもたらされるだろう事も予想できる。独裁者は、ある一時期にはたいへん効率的な面を見せるが、それが長く続けば効率が悪くなるのではないかと思う。どんなときに独裁を許すかということの考察が大切になってくるだろう。

黒幕タイプというのは、いかにも悪いやつの代表みたいなイメージがあるが、これもなかなか難しい問題を含んでいるのではないかと思う。社会というのは建前だけでは回らない部分をどうしても持っているのではないかと感じるところがあるからだ。建前だけでは回らない部分を、陰の機能として引き受ける黒幕という存在があったほうが、社会が安定するということもあるだろうと思うからだ。

ただ、陰の存在は、あくまでも陰として引っ込んでいてもらわないとならない。これが表に出てくるようになるとまた問題が生じてくるだろう。この黒幕の存在は、必要悪としてどのような整合性を持たせるかが難しいだろう。

明治のころの日本は、自らが植民地化されるのを防ぐために、当時遅れていたアジア諸国を進歩させるために指導するという意識を強く持っていたように感じる。その意識が、明治の日本の急速な発展をもたらしたようにも感じる。だからこそ明治は明るい時代としてイメージされるのではないかとも思う。だが、その明治がやがては「侵略」という結果を生む昭和の時代になってしまう。このボタンの掛け違いはどこから生まれるのだろうか。岡田さんの考察がそれを考えるためのヒントを与えてくれるような感じもする。岡田さんのこの本は、面白おかしい軽い読み物になっているが、そのような深い内容を同時に持っているという稀有な優れた本ではないかと感じた。