国語的文章読解と論理的文章読解


野矢茂樹さんの『論理トレーニング』(産業図書)という本で改めて論理について考えている。野矢さんは、この本の冒頭で「「論理」とは、言葉が相互に持っている関連性に他ならない」と述べている。論理とは、極めて言葉に深いかかわりのあるものなのだ。だから、論理を学ぶということは言葉を学ぶということでもある。

しかし日本の学校教育では、論理の一端を数学で学ぶものの、文章を学ぶ国語においては論理というものはほとんど顔を出さない。国語において学ぶのは、ほとんどがその文章の味わいを感じる鑑賞の側面に限られている。題材としても文学的作品(文章による芸術作品)が圧倒的に多い。たまに説明文が題材にされることがあっても、その説明文がどのような論理構成で説得力をもっているかということは話題にされることがない。

僕は論理に強い関心を持っていて、言語学などにも惹かれるものを感じていたが、高校までの国語で学習した内容はほとんど関心がなく、むしろ嫌いだった。その文章読解は、ほとんど感性の範囲でなされており、なぜそのように読まなければならないのかという解釈に合理性を感じていなかったからだ。ほとんど感性でそのように感じなければならないという押し付けを感じ、自分の感覚で自由に読むということを邪魔されている感じだった。自分は何故に模範解答と違う読み方をするかということが気になっていた。それは自分の感性を否定的に受け止めなければならないことなのかと不満に思っていたものだった。

後に論理を学習するようになって、論理というものの「流れ」が読めるようになると、その流れによって解釈が違ってくるということはむしろ合理的なことなのだということが分かってきた。文章の読み方が人によって違うのは、そこに受け止めている論理の流れが違うのであり、その流れは、言葉のもつ意味の二重性から、どの意味でその言葉を受け止めているかという自分の主体性によって違ってくるということが分かった。そしてそれこそが論理的に合理的なのだということが分かった。人間は、勘違いでさえも論理的に受け止めているのだ。

国語的な文章読解は、感性がどう受け止めているかということがその解釈の基礎になっているので、感性の違う解釈は理解の仕様がなかった。そう感じることもあるんじゃ仕方がないか、という受け止め方だった。だが、論理的な解釈は、その論理の流れになっている前提を理解することが出来るなら、そう解釈することの合理性を理解できる。その前提にたとえ自分では賛成できなくても、その前提を認める限りではその解釈の合理性を理解できる。感性の違いは埋められないが、論理の違いは埋められる。

この意味で、民主主義の社会を生きる人間には「論理トレーニング」は非常に役に立つものとなると思うのだが、日本の学校教育ではそのような発想が取り入れられたことがない。ほとんどの学校で行われている教育は、知識を効率よく覚えるということに偏っている。

野矢さんはトレーニングを、論理的な流れを作り出す接続詞を適切に選ぶという訓練から始めている。それは、感性で語調というようなものを頼りに選ぶのではなく、前後の主張の論理の流れを受け止めて、その流れにふさわしい表現をただ一つ選び出すという訓練をするものになっている。これは感性で選ぶのではないから、どうしてその接続詞を選んだのかという理由を、他者に分かるように説明できなければならない。その説明が合理的に出来るというのが、この訓練の合格基準になるだろうか。野矢さんは次のように書いている。

「そこで、こうした問題では、単に適切な接続表現を選ぶだけではなく、どうしてそれが適切であると考えられるのか、そしてまた、そこで選ばれなかった接続表現はどういうところが不適切なのかを、説明して欲しい。その際、あなたと違う答えを出した人を想像して(実際にそのような人がいればその人に向かって)、その相手に納得してもらえるように説明を試みて欲しい。形だけの説明ではなく、どう説明すれば人に分かってもらえるのかをかなり本気で考えて欲しいのである。単に適切な接続表現を選べるようになることよりも、そのような説明がきちんとできるようになることのほうが、論理トレーニングとして、はるかに大事なことである。」


この野矢さんの姿勢は、野矢さんのどの著書にも感じるもので、野矢さんは論理学の専門研究者であると同時に優れた教育者であるということを感じるものだ。野矢さんがこの本で提出している問題について、野矢さんが語る解答を僕自身がちゃんと納得できるかどうか、そしてその解答は、僕以外の誰もがそのとおりに合理的に理解できるかどうかを考えることは、論理のトレーニングとして非常に有効なものだろうと思う。

論理というものをまったく考えずに、自分の感性だけで文章を受け止めている人に対しては、論理的な説得は効かないかもしれないが、論理的側面に関心を持っている人にだったら、論理的な正しさがきちんと伝わるものなのかということにも興味がある。それは、論理の専門知識があるなしに関わらない。論理というのは、デカルトも語ったように、万人に平等に分けられている理性の働きとして見られるものだから、理性を持った相手にだったら論理的正しさが伝わらなければならない。理性的な対話において論理が伝わらないのであれば、それはその論理のどこかが間違っているということになる。

人間は、ある種の問題に関してはそれがあまりにも自分に切実過ぎるために理性の働きが鈍ることがある。そのような問題では論理的な流れを自覚するのが難しいが、それほどの切実さがない問題であれば、たとえ自分とは違う感性からの出発であっても論理の流れを捉えることが出来るだろう。もし野矢さんが提出するトレーニングの問題の論理の流れと違う流れを捉えている人がいたら、その流れを理解したいものだと思う。自分では発想できない論理の流れを知ることが出来たら、自分の論理の技術が一歩進歩するのではないかと思うからだ。

さて野矢さんは次のような問題を提出して論理のトレーニングを始める。

問題 次の文章において適切な接続表現を選び、どうしてそれが適切であり、他方が不適切なのかを説明せよ。

「ルドルフ・ブルトマンは「キリスト教が始まったのは、イエスの弟子たちが、「十字架上に死んで復活したイエスは救世主(キリスト)である」という宣教を開始したときである」と言う。
     (a)<だから/すなわち>
キリスト教は、イエスをキリストと告白する宗教のことである。
     (b)<だから/すなわち>
エスはクリスチャンではないし、イエスの宗教は−−若干の留保をつけてではあるが−−なおユダヤ教の枠内にある。イエスの教えは、換言すれば、キリスト教成立の諸前提のひとつに過ぎないのである。」


この問題において、(a)および(b)の位置での接続詞は「だから」と「すなわち」のどちらがふさわしいだろうか。これを、口調のような感性で選ぶのではなく、前後の論理の流れから、その流れの読み取りにおいてはこれでなければならないというのをどちらか選ぶのが論理トレーニングになる。さてそのようなものは選べるだろうか。

答えを先に言ってしまえば、(a)は「すなわち」であり、(b)は「だから」になる。これは、「すなわち」と「だから」の接続詞を、論理的な流れのつながりとしては、どのように解釈しているかという概念によって決まってくる。

「すなわち」という言葉は、同じレベルでの言い換えに際して用いられる。

    A すなわち B

と語った時は、Aで語られた内容とBで語られた内容は、意味的に同じものになっている。しかも論理的なレベル(抽象性など)がほぼ同じであるという特徴を持っている。上の問題の文章では、イエスの弟子たちが「宣教を開始した」という言明と、「キリストと告白した」という言明は、同レベルで、同じ意味を語っているものと解釈される。このとき、「キリストと告白した」という一般的な言い方ではなく、誰か具体的な個人が具体的な行動をしたというような言明が続くようなら、それは同レベルではなく、抽象から具体へというレベルの違いが生じる。そんなときは、「すなわち」よりも「たとえば」という言い方のほうが論理的にはふさわしくなる。だが上の問題の場合は、次の文章とのつながりを考えると、論理の流れとしては「すなわち」がふさわしい。

(b)の解答が「だから」のほうがふさわしいというのは、「だから」というのは論理的な根拠を示す言葉であり、後に続く言明がどうして成立するかという理由を、その前の文で語っているという論理の流れがそこにあることを示していることから得られる。

「イエスがクリスチャンでない」というのは、イエス自信がキリスト教という教えを持っていたのではないということから帰結されるものだ。それは、キリスト教の発生が、イエスの死後に始まったという前の文章を根拠にして得られるものになる。イエスの死後にキリスト教が生まれたのだから、生きているイエスキリスト教徒(クリスチャン)にはなれないというのは論理的な帰結である。

野矢さんは、このような論理的帰結は、そのままでは容易に認められない主張を、より認めやすい主張を元にして導くというような言い方をしている。そのような論理の流れがあるときに、「だから」という論理を示す接続後が使われる。

野矢さんが解説するように、この問題の接続詞は、その論理の流れを考えると上の正答以外には選べない。だが(a)の接続詞を「だから」だと勘違いする論理の流れも想像することが可能だ。それは、その前の言明を根拠にして「だから」でつなぐ論理の流れを読んでいる場合だ。

そのような論理の流れでは、ブルトマンが語っていることを根拠に、それだから、キリストだという告白がキリスト教だという論理の流れになる。このような論理の流れは、権威ある人が語ることは正しいという前提のもとでの論理の展開になるだろう。権威ある人が語ったことを言い換えて「すなわち」というのではなく、「だから」でつなぐ人は、権威主義的な論理の流れをしやすいのかもしれない。論理の流れを考える上で戒めとしておかなければならないだろう。野矢さんが提出するトレーニングをしばらくよく考えていきたいと思う。