内田樹さんの分かりやすさ 3


ソシュールに対する再評価を教えてくれたのも内田さんの『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)という小冊子だった。ソシュールについても、僕は三浦さんの批判を通じてまず知ったために、何となく間違っているのかなという思いを抱いていた。特に当時養護学校での障害児教育において、「内言語を育てる」ということが理論的に語られていて、この「内言語」という概念がソシュールに通じるものだといわれていたので、障害児教育における「内言語」の概念に疑問を感じていた僕は、ソシュールもどこか間違っているのではないかと感じていた。

しかしソシュール構造主義の祖と言われ、言語学に革命的な進歩をもたらした者として敬意を払われ支持されている。それが明らかな間違った理論であれば、なぜそのようなことが起こるのか合理的に理解できなくなる。支持した人間はみんな間違っているし、みんな馬鹿だったのだとでも思わなければ理解できなくなる。そんなことはないんじゃないかという思いが一方ではあった。

三浦さんの批判は、主として三浦さんが定義する「言語」の概念に照らして、ソシュールが提出する「言語」の概念が、言語としては認められないということが中心だった。三浦さんはあくまでも言語を「表現」として定義していた。「表現」だからこそ、その「表現」が生まれてくる過程的構造(現実に存在している何を認識し、何を考えたかが「表現」とのつながりで把握されなければならない)が問題になる。この前提を持てば、「表現」ではない言語規範を言語として定義したソシュールは、その時点でもう間違っていることが論理的に導かれる。

だがこれは、三浦さんが定義する「表現」こそが言語だという前提を認めたときにソシュールは間違っているということが帰結されるという論理構造になっている。三浦さんの定義を前提にしなければ、ソシュールが語る対象を言語と規定するような、言語の別の側面を語るやり方もあるのではないかという感じもする。論理的な前提というのは、現実の観察から選び取られるのであるから、言語の「表現」としての側面を重視する観点では三浦さんの定義が選択されるだろうが、別の側面を重視すれば、別の定義が成り立っても論理的には問題がないのではないかという気もする。

これと同じような概念の食い違いは、僕が尊敬する板倉聖宣さん(仮説実験授業の提唱者)と三浦さんの間の「科学」という言葉の使い方で起こっていた。三浦さんには『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)という本があるが、板倉さんは、弁証法は発想法であって科学ではないという判断をしていた。これは板倉さんの「科学」の定義から論理的に導かれる結論だった。

板倉さんの「科学」の定義は、「仮説実験の論理」を経て確認された一般的な真理を述べる言明というものだった。真理というのは、事実と言い換えてもいいが、個別的なものであれば現実の観察を正しく言葉で表現したものになる。「小泉純一郎氏は日本国の総理大臣だった」などというのは、この言明どおりの事実が観察されたとき、それは真理であると言われる。

「科学」はこのような個別的な真理ではなく一般性を持ったものとして提出される。たとえば、「(どんな物質でも)物質は原子から構成されている」とか「(どんな物質でも)自然落下における重力加速度は一定である」というような言明は、どんな対象にでも成り立つという任意性を主張する点で一般性を表現するものになっている。この一般性(任意性)を確認する論理が「仮説実験の論理」というものになる。

「仮説実験の論理」では、任意性を確保するために、未知なる対象の運動を実験前に予測するということをする。その予測の根拠になるような一般的な命題を「仮説」と呼んでいる。この「未知」であるという要素が、どんなものを選ぶのかという点で恣意性を排除するので任意性をもたらすのだと考えるのが「仮説実験の論理」だ。このような思考を経て任意性を獲得したものだけが「科学」になるというのが板倉さんの「科学」の概念だ。

この「科学」の概念に照らして考えれば、弁証法は一般性を主張することが出来ないので「科学」にはなりえない。弁証法は、任意の対象には成立しない。現実に適用してみて、現実を観察しなければ弁証法性が成り立つかどうかが分からないのだ。対象によって臨機応変に適用したり適用を断念したりしなければならない。このようなものは発想法として活用したときにもっとも効果を発揮する。思考の展開に行き詰まって、問題の解決の方向が見えなくなったとき、対象の弁証法性を考えてみて、ちょっと視点をずらしてみようかという方法で論理を展開するとうまくいく場合がある。うまくいかない場合もあるが、手探りで未知の対象に切り込んでいく時は、このようなものが役立つことがあるだろう。

僕は板倉さんの「科学」概念を支持して、弁証法はやはり「科学」ではないと思う。これは板倉さんの概念のほうが役に立つことが多いと思うからだ。「科学」と発想法を区別するのに有効性を発揮する。もし弁証法を「科学」だと思ってしまえば、そこに弁証法性を発見しただけで真理性があると勘違いしてしまうが、発想法だと受け取れば、「仮説実験の論理」で確かめるまではそれは「仮説」にしか過ぎないのだと受け取れる。

構造主義に関しても、それが発想法だと受け止めれば有効性のある考えだと思えるが、それが「科学」のような一般的な真理を語っていると受け取ると、やはり構造を発見しただけで真理だという勘違いをしてしまうだろう。しかし、存在するもので構造が発見できないものなどないのだから、構造を見つけただけで真理性が確立することはない。弁証法にもそのようなことが言えるだろう。視点をずらすことができて、対立する視点を見つけることが出来れば、どんな存在だって弁証法性を発見できる。だから弁証法性を発見しただけでは真理にはならないはずだ。弁証法と科学では、その真理性の質がまったく違うというのが板倉さんの主張であり、僕はそれをなるほどと思って支持する。

「科学」というのは単純な概念ではなく、その捉え方によってさまざまな定義が出来るものだろうと思う。だから三浦さんと板倉さんで「科学」に対する定義が違っていてもそれは仕方がないだろう。板倉さんの定義が絶対に正しいから、それに反する三浦さんは間違っているとはいえないだろうと思う。評価をするには、どちらの定義がより有効な知識を我々に教えてくれるかということから考えるしかないだろう。僕は、板倉さんの定義のほうが有効性があると評価するので板倉さんの定義を支持する。

三浦さんの言語の定義とソシュールの言語の定義にも、「科学」を巡る三浦さんと板倉さんの違いと同じものがあるのではないかと思う。三浦さんの定義に照らせばソシュールは間違っているだろうが、その定義は絶対的で一義的だとはいえないのではないだろうか。むしろソシュールの定義に従って論理を展開したときに、どのように有効な知見が得られるかを考えたほうがいいのではないか。そしてその結果でソシュールを評価すべきなのではないかと感じる。

三浦さんの定義では、言語は「表現」の一種として定義されているので、相手が何を言いたいのか・自分が言いたいことが正しく伝わるか、という観点で言語現象をコミュニケーションとして捉えたときに有効な知見をもたらしてくれる。三浦さんの言語論を学ぶと、文章読解の能力が高まるのを感じる。よく考えられた文章では、助詞の使い方一つで深いニュアンスを読み取ることが出来る。その読み取り能力の進歩に伴って、自らの表現の引出しも増えていくような感じがする。

それではソシュールが定義するような、言語規範を言語だと捉える定義では、どのように有効な知見をもたらしてくれるだろうか。それを探し求めてソシュールの研究者が語ることを読んでみたのだが、これがさっぱり分からなかった。専門家はそういう問題意識を持っていないのだろうかと思うくらい、僕が期待することを語ってくれる人がいなかった。

それが、内田さんが『寝ながら学ぶ構造主義』で語っていることの中には、僕が期待するようなソシュールのどこが優れていて、どのような考えが有効なのかが書かれていると感じた。それは次のように語られていた。

ソシュール言語学構造主義にもたらした最も重要な知見を一つだけ挙げるなら、それは「言葉とは、『ものの名前』ではない」ということになるでしょう。(他にもソシュールはいろいろなことを指摘したのですが、一番大事な一つだけにしておきます。)ギリシャ以来の伝統的な言語観によれば、言葉とは「ものの名前」です。」


この内田さんの言葉は、僕と同じような問題意識を持って眺めなければ、なんだ大したことを言ってないじゃないかと思われるかもしれない。しかしここにこそ、三浦さんが定義する「表現」としての言語と、ソシュールが定義する「表現」ではない側面の言語という概念の違いが見られるのではないかと思った。

言語を「ものの名前」だと考えるなら、それは我々がある対象を認識して、それが何であるかを「表現」するというコミュニケーションの道具としての言語の姿が見えてくる。対象がそこに存在するから、ものの名前としての言語が頭の中に浮かんできて、それを認識したということが表現される。それを受け取った対話者が、言語によって表現者の認識を受け取ることが出来る。

言語が「ものの名前」であるというのは、すでに言語の中にどっぷり使っている状況の人間には自然な受け取り方だろうと思う。言語のある生活の中に生まれ、言語を学ぶことが生きることでもあるという状況の人間には、名前のついていないものはほとんどない。固有名詞がなくても、「それ」とか「あれ」と呼ぶことが出来る。存在しているもので、何らかの表現が出来ないものはない。現在に生きている我々にとっては、言語は「表現」であるという前提はほぼ自明なものになる。

しかし、まだ言語が充分でなかった時代に、今の我々なら知っている・つまり存在していることを知っているものでも、かつては誰も知らなかったものというのがある。そういうものは果たして名前があったものといえるだろうかというのがソシュールの問題提起だと内田さんは語る。そういうものは、むしろ名前をつけること(言語化すること)によって、存在という属性そのものも獲得されたのではないかというのがソシュールの発想のように感じる。

このように考えると、ソシュールの言う言語とは、すでに出来上がった・コミュニケーションの道具として現前しているものではなく、人間が思考の中で利用している、思考を進める道具として生成・発展しているものではないかという気がしてくる。そうであれば、ソシュールの発想では、むしろ言語規範こそを言語と呼ぶのがふさわしいのではないかという気もしてくる。問題は、これがどのような有効性を持っているかということではないだろうか。

三浦さんは、コミュニケーションの道具としての「表現」に注目したが、ソシュールは思考の道具としての頭の中にある「記号」としての言語に注目したのではないだろうか。そうであれば、ソシュールの発想は、思考とか論理とかの分析に有効性を発揮するのではないかと予想できる。もしかしたらウィトゲンシュタインの捉え方に近いかもしれない。ソシュールについては、内田さんの解説から、もう少し詳しく考えてみようと思う。