システムの「秩序」という概念


宮台真司氏は「連載第四回:秩序とは何か?」では「秩序」という概念を説明している。この概念も、普通に辞書的に受け止めている「秩序」という言葉の意味と、宮台氏がここで語っている意味とでは大きな違いがあるのを感じる。

「秩序」という言葉が普通に使われる場面では、そこに望ましいと評価される規則性があるのを感じる。つまり「秩序」には価値評価が伴っているという感じがする。「秩序」がないと判断される場合は、それは価値が下がったように評価され、何とか「秩序」の回復を図るというふうに考えたくなる。

「秩序」は安定をもたらすと考えられる。「秩序」のある経済は我々の日常生活を安定させ、安心して物を買ったり売ったり出来る。「秩序」のない経済は、たとえばインフレがひどくなった状態を想像すれば、物を売るにも買うにも、どこでそれをすればいいのかという判断が分からなくなり、人々の生活は困窮する。ひどく困った状態が「秩序」の乱れから帰結される。

この「秩序」にまとわりついたイメージは、実は特定の文脈にくっついたイメージかもしれない。「秩序」そのものには価値的判断は本質的なものではなく、もっと一般性を持った特長が抽象されて、「秩序」の本質を押さえたような概念が「一般理論」の対象となるべきだと考えることも出来る。このような発想で提出された「秩序」の概念が、宮台氏がここで語っているものではないかと思われる。

宮台氏がここで語る「秩序」は、それがあることに特別の価値を見出すものではない。それは概念的には、その反対物であるランダムで乱雑といえるような状況ではない、というものを示しているように見える。この「ランダムで乱雑」という状況を、価値判断抜きで捉えるには確率論的な意味付けをすることがもっとも有効だと考えて、「秩序」と確率論を結び付けて定義しているように思える。

宮台氏は、黒球と白球を2個ずつ、合計4個の球を並べるという現象において、どのような状態が「秩序」があるかという例をあげて、この「秩序」概念を説明している。普通に印象として「秩序」の感じを考えると、バラバラに並んでいるなあと思えると「秩序」がないと感じるし、白が2つ並んでいる後に黒が2つ並ぶというような状況を見ると、白と黒が分かれていて何か「秩序」があるなあという感じがしてくる。

これを感覚的な印象で判断するのではなく、誰が判断しても後者の方が「秩序」があると判断できるような定義をするのが、ここでの「秩序」概念の目的であるように思う。これを確率の考えを使って判断すれば、後者の方が「秩序」があると常に判断できるようになっていると、宮台氏の説明を読むとそう感じる。

4つの球を順番に並べるとき、確率で考えると、最初の球の取り出し方は4通りになり、2番目は一つ少なくなるので3通りになる。以下3番目の選び方は2通りで、最後の珠は一つしかないから1通りの選び方になる。したがってすべての並べ方はこれらを掛け算して4×3×2×1=24通りの違う種類があることになる。

もし「ランダム」という状況を、この可能な並べ方のどれが現れてもいいのだと定義すれば、「ランダム」の確率は

    24/24=1

になる。これに対して前の二つに白を、後の二つに黒を並べる並べ方は、最初の球の選び方は二つの白のうちの一つをとることになるから2通り、次の白は一つしかないから1通りある。この後ろに並ぶ黒は、二つの中から一つ選ぶので2通りの選び方があり、最後は一つしかないから1通りの選び方になる。これらすべてを掛け算すると2×1×2×1=4通りあることになる。したがって、この場合の確率は、

    4/24=0.166666……

という値になる。この確率計算において、相対的に確率の値が低いほうを、エントロピーが低いといい、エントロピーが低い状態を、エントロピーが高い状態(ランダムな状態)に比べて「相対的に秩序だっている」と呼んでいるようだ。「秩序」という概念は、このようにして価値判断と関係なく、状態を客観的に計算して判断される。

この白球と黒球の集合は、その要素である球の間に何らかの関係があるわけではない。つまり、どの球が並ぶかは本来の意味でのランダムであって、そこに「秩序」が実現されることはおそらくない。つまり白球が二つ前に並んで、黒球が二つ後ろに並んだとしても、それは偶然そうなったのであって、いつでもそうなるような「定常システム」のような働きがあるわけではない。

実際には、このような白球と黒球の状態は現実には「秩序」を持ち得ないだろう。問題は、その対象がシステムという特徴を持っているとき、つまり要素間に同一性の前提を供給しあい、その関係がループを作っているという状況が見られるとき、そこで実現されている状況は、実は確率的に低い・エントロピーが低い状況が実現されており、いつでも「秩序」があるという判断が出来るかどうかということだ。

「定常システム」は、それが「同一性」という言葉で語られるようなある状況が常に実現されているということを観察できる。感覚的に「秩序」があるように見える。これが感覚の範囲の判断ではなく、誰が判断しても「秩序」があるといえるような、厳密な意味での「秩序」の概念が成り立つと、論理的に帰結できるかどうかが、システムの概念において最も重要なものであるといえるのではないだろうか。果たして、システムであれば必ずそこに「秩序」をもたらすといえるだろうか。システムの概念は、そこに「秩序」の実現を内的に含んでいるものになっているかどうか。論理によってそれが導けるだろうか。

宮台氏は次のような論理展開でこのことを示している。

「Aの変域がa1,a2,…,an、Bの変域がb1,b2,…,bmだとします。AとBの値の組合せはn×m通り。ところで今、Aがa1のとき次時点でBがb2となり、Bがb2のとき次時点でAがa2となり、Aがa2のとき次時点でBがb1となり、Bがb1のときAがa1となるとします。
そうすると、任意の時点でのAとBの値の組は(a1,b2)(a2,b2)(a2,b1)(a1,b1)の4通りとなり、1時点でとりうる場合の数を比較すると、ループが存在しない場合の(n×m)分の4の状態しか現実化できない、つまり場合の数が少ないことが分かります。
時間的に見ると(a1,b2)→(a2,b2)→(a2,b1)→(a1,b1)→(a1,b2)→…と4通りの状態を循環的に遷移するので、エルゴード仮説の下では任意の連続4時点間で(n×m)の4乗分の4の生起確率で、秩序すなわち確率論的にありそうもない状態が現実化しています。
かくして定常システムは要素間の交互的条件づけという内部メカニズムの永続的作動で、確率論的にありそうもない状態を維持します。これを「内部的作動による秩序維持」と言います。初期状態が決める無限波及的均衡に注目する均衡システム理論にはない概念です。 」


これは、数学が苦手な人には、ちょっとややこしくて分かりにくいかもしれないが、ポイントは

   (a1,b2)、(a2,b2)、(a2,b1)、(a1,b1)

という状況しか、このシステムでは実現されないということだ。なぜなら、いまの状況がこの4つのうちのどれかであったとき、次の状態はシステムの内的動作で決まってしまい、他の可能性を排除してしまうからだ。ある時点で、この4つのうちのどれかが実現していれば、次の状況は

   (a1,b2)→(a2,b2)→(a2,b1)→(a1,b1)→(a1,b2)

というループの成立から決まってしまう。これがシステムの機能だということは、システムの定義(概念)から導かれる。システムがシステムである限りでは、そこに「秩序」が実現されるというのは必然的なものになる。逆に言えば、それがシステムとしてのループの成立が出来なくなれば、それによって維持されていた「秩序」は失われるということも必然になる。そのような時には、状態は「ランダム」であることが普通になる。

システムという概念は、秩序という概念を論理的に導く。秩序の分析にはふさわしい概念となっている。システムと秩序の論理的関係は、

  それがシステムである →(ならば) それは秩序がある

というようなものになっている。これを逆にした

  そこに秩序がある →(ならば) そこにシステムを発見できる(システムがある)

ということが言えるかどうかが気になる。秩序があれば、そこで実現されている状況は「ランダム」ではない。確率的にはありそうもない現実がそこに実現されている。それは偶然そうなっているだけなのか、それとも何らかのシステムがそこにあり、そのシステムの機能としてそのようなありそうもない現実が起こっているのか。

自然科学は、自然の中にいろいろなシステムがあることを発見して、自然の法則として「秩序」が実現されているのを発見したといってもいいだろう。それは偶然そうなっているのではなく、必然的にそうならざるを得ない法則性がそこにあるのだということを発見した。

人間の現実・人間の世界において、秩序が実現されている状況は、偶然というものはないのだろうか。すべては何らかのシステムがあるのだろうか。これは決定論的な問いかもしれないが、もし偶然というものがあるならば、それはどのようなとき偶然と判断されるのか。

構造主義は、秩序の背後に構造があるという発想のように見える。この発想では、秩序の背後にはシステムがあるのだという見方のようにも見える。それは常にそういえることなのか。それとも、そういえない場合があるのか。あるいはどちらとも決定出来ない場合があるのか。考えてみるのは面白いかもしれない。