社会システム理解のための「意味」「行為」「コミュニケーション」という概念


宮台真司氏は「連載第五回 社会システムとは何か」では「社会システム」というものを説明している。これは、宮台氏が考察しようとしているシステム一般を表す「定常システム」に対して、それが社会の中に見つかるという意味での特殊性を持っている対象として考えられている。社会の中、すなわち人間が関わって構成されるシステムは、人間存在とは独立に存在する物質的で機械的な「定常システム」とはその性質を異にする。

人間と独立に存在するシステムは、意志の問題が介在しないので、外から観察することによってシステムの働きを記述することが出来る。宮台氏は、対流の現象や排水のときに出来る渦巻きの現象をその例としてあげている。水を熱すると、その熱い部分と冷たい部分との作用で「対流」が起こり、それは熱している限り存在しつづけるという「定常システム」になっている。このシステムは、外からその熱量や温度を観察することによって、何が起こっているかを記述することが出来る。システムであるから、それが安定的に繰り返されるループになることも記述することが出来る。排水の現象に関してもそうである。

しかし、これが社会に存在するシステムの記述になると、外から観察するだけでは、そのシステムを完全に記述することが出来ない。自然現象と違って、人間が行うことは、それが物理的に記述できる「行動」として観察されて、行動面では同じように見えても違うものと判断されることがあるからである。そこにはある種の意味が読み取れるために、行動としては些細な違いだ(末梢的だ)と思われるのに、意味として大きく違ってくるという判断がされて、同一ではないと判断される。このように意味を伴う行動を宮台氏は「行為」とも呼んでいた。

社会システムを理解するには、人間の意志に関わる特徴を持つ「意味」「行為」「コミュニケーション」という概念を理解することが必要になる。これらを理解して初めて、社会システムにおける同一性というものが明確になる。その秩序を評価できるようになる。

宮台氏は、野球というゲームを一つの社会システムとして例にあげている。これはいくつかのルールを元にして、秩序のあるゲームが行われ、どちらかの勝利によって終わる。そのルールは3つのアウトが判定されて交代するということが繰り返され、この繰り返しがループとして捉えられる。このループが、ランダムに行えばその行動が何が起こるかわからなくなるというものにならずに、ちゃんとゲームとして誰もが理解できる形に落ち着き、それが秩序として評価される。

さて、野球においてピッチャーから投げられたボールをバッターが打つという行為が繰り返される。この行為において、バッターは1塁へ走ったり走らなかったりする。行動としてバッターの打つ行為を見ている限りでは同じように見えるのに、その後の行為が走ったり、走らなかったりと違ってくるのは、バッターの打つ行為の「意味」が違っていることに対応している。

ホームと1塁、あるいはホームと3塁を結ぶ線の内部はフィールドと呼ばれるが、バッターが打った打球がフィールドの中に入れば、それは1塁へ走る打球となる。しかし、フィールドの外に出ればそれはファールになり1塁へは走らない。打球の「意味」が違ってくる。この「意味」の違いによって、ある行為の次の行為が違ってくるというのが社会システムの特徴だ。

ある行為の次の行為がどんなものであるかがルールによって決められ、その行為の連鎖がループをなすなら、ある行為がそのループの中に入り込むことによって、そのシステムはそのループによる繰り返しで同一性を保つ。これが社会システムにおける秩序となるだろう。行為は意味によって同一性を判断される。したがって、社会システムにおいては、「行為」と「意味」の概念は非常に重要なものになる。

ここで改めて「意味」の概念を考察してみると、これが概念として捉えようとするとなかなか難しい。三浦つとむさんも『日本語はどういう言語か』という本で「意味」の概念を考察していたが、この概念が難しいのは、それが感覚でつかむことが出来る実体的なものではないからだ。三浦さんが考察していたのは「言語の意味」というものだったが、これは、いくら言語を眺めてもそこに見えるものではない。三浦さんの結論は、言語で表現されているものを、言語の語彙から現実に存在する対象を想像し、その対象が表現者の脳にどのような認識をもたらしたかを、その言語を頼りに想像し、言語と対象と認識の間に関係をつけることが意味を読み取ることになるというものだった。意味とは関係性の理解というものだった。

このような「意味」の捉え方は、なるほどとは思えるものの、概念として運用するにはちょっと難しさを感じる。関係性という概念が「意味」の概念と同じくらいに難しさがあるからだ。これに対して、宮台氏は「意味」の概念を直接に述べはしないものの、その機能を語ることで「意味」の概念の運用を語っている。宮台氏が提出する「意味」の機能は次の4つだ。

  • 1 示差性  意味の違いは、それが指し示すものの差異を表現する。意味の違う言葉を使えば、その言葉は意味の対象が異なることを表している。<犬>とか<狼>とかという言葉を使えば、その意味が違うことによって、それが指し示す対象が違うことを表す。意味の違いが差異性として理解されることを「示差性」と呼んでいる。
  • 2 二重の選択性  ある対象を表現したとき、その捉え方(認識)によって、意味の異なる表現が出来る。ある対象を「コップ」とも「ガラス」とも表現できる場合、この意味の違いは、意味の機能に二重の選択性があるからだと考える。一つの選択は、それを「用途」として考えたときの対象の名を選ぶというもので、もう一つの選択は、それを「素材」として捉えたときの素材の名を選ぶものだ。「用途」か「素材」かという選択は、ものの捉えかたの基本として「地平」の選択と考え、その「地平」の中で異なる名を選択することになるので、選択が二重になる。
  • 3 否定性  示差性によって、ある「地平」の元で選択された対象の名は、その「地平」に存在する他の名を否定することになる。「コップ」であると判断された対象は、「用途」という地平では、「皿ではない」「茶碗ではない」「カップではない」というような否定性を「地平」の中に温存すると考える。
  • 4 選びなおしの可能性  上の否定性で温存された否定性を帯びた名を選びなおすという機能が、4で語られる「選びなおしの可能性」というものになる。この機能によって、意味は変化する可能性をもつ。「コップ」だと思ったものが、実は取っ手がついていて「カップ」だったと言い換えるのは、意味の「選びなおし」をしていると考える。


このような機能において同一かどうかが判断され、「意味」における同一性が「行為」の同一性の判断に結びつく。「意味」を機能的に捉えるのは、この同一性の判断において便利だからだと考えられる。「意味」そのものを概念として運用するのではなく、「意味」は「行為」の同一性を判断する道具として使われている。このような時は、意味それ自体の概念を問題にするのではなく、機能を捉えたほうが役に立つ結果をもたらすだろう。

このようにして同一性が評価された「行為」の連鎖がループとなり社会システムの構造が明らかになっていく。「行為」の連鎖がループを作るなら、社会システムの要素は「行為」だと考えたくなるが、それは現在の社会学では「コミュニケーション」だと捉えられていると宮台氏は言う。これはちょっと分かりにくい言い方だ。「コミュニケーション」という言葉が普通の遣い方とは違うようなのだ。宮台氏は次のように書いている。

「社会システム理論に限らず、システム理論では、選択と選択との時間的な接続をコミュニケーションと言います。人文諸科学でコミュニケーションというと、メディアで繋がれた送信機と受信機を挟む二人の間でメッセージが伝わることを言いますが、違う概念です。」


ここでいう「選択」とは「行為」の選択を意味する。つまり、どんな「行為」をしたかということと同じ意味になる。ということは、コミュニケーションというのは、行為の連鎖という現象を言い換えたものと考えられる。考え方としては、社会システムの要素が「行為」であると捉えているのと同じことだ。それなのにどうしてわざわざ勘違いしそうな「コミュニケーション」などという言葉を新たな概念として使うのだろうか。

それは「行為」という概念の中には、そもそも「連鎖」というような「接続」をしているという現象が想定されていないからだ。「行為」という概念そのものは、それが内的な意味を含んで判断されるという概念であって、続けて何かが起こるということは概念としては含んでいない。だが社会システムでは、選択の「接続」ということが重要で、それが連鎖のループを作っているということがシステムであることの決定的な根拠となっている。この連鎖の状況を作る「接続」を強調するために、「コミュニケーション」という概念を使うのだと思う。宮台氏は次のように書いている。

「かくて、行為を要素する社会システムを、あえて「社会システムはコミュニケーションから成り立つ」と言いなす意図も、一層明確になります。行為は物理的に生成消滅しても、意味的に「持続」するので、たえず選択接続に道を開く、ということを示唆したい訳です。」


この段階では、社会システムはまだその具体像を表さず、ぼんやりとした漠然としたイメージで概念化されている。文脈は自由だが、自由であるがゆえに雲をつかむようなどこかに逃げてしまいそうな感じがするものだ。

宮台氏はこの講座の後のほうで、「人格システム」であるとか「法システム」「宗教システム」「政治システム」という、もう少し具体性のある現存するシステムに言及する。このような対象に対して考察すれば、いまはぼんやりとしている社会システムの概念が、もう少しイメージ的にはっきりしてくるのではないかと考えられる。

いずれにしても、「意味」「行為」「コミュニケーション」という諸概念が、これらのシステムのループを発見するのに役に立つのだろう。とりあえずは、上のような概念の理解でさらに先を読み進めてみようと思う。徐々に理解が深まればいいのだがどうなるだろうか。