「構造」という概念


宮台真司氏が「連載第六回 構造とは何か」で説明している「構造」という概念について考えてみよう。まずはこれの辞書的な意味から生まれてくるイメージを考え、その概念を考えてみよう。そして、宮台氏が説明する概念が、それとどのような面で重なるか、どのような面で違うかということを考えてみたい。

「構造」という言葉は、辞書的には「仕組み」と言い換えられることがある。これはその対象の部分的な要素がどのように組み合わされているかということを見たときに、その組み合わせ方を「仕組み」と呼ぶことがある。部分と部分を実体的に見るのではなく、その関係を捉える見方になる。「構造」は対象の全体に渡るものだが、それは部分の間の関係として我々には直接見えるものとなる。

また「構造」には、それが容易には崩れないというイメージがある。あるいは、容易に崩れるようなことがあっては困るものに対して「構造」を考えることが多いといえるだろうか。建物の構造などは、それが簡単に崩れてつぶれてしまうようならたいへん困ることになる。それこそ地震などが起こってもそれに耐えるくらいに強い「構造」が求められるといえるだろう。

「構造」が強固に見えるのは、それが強固で変化しないからこそ見えてくるので、見えてくるということ自体に「構造」の強さが含まれているということも言える。このようなイメージは、「構造」が変化しないものであるという印象を与える。この「変化しない」という面を重視して「構造」概念を考えたのが宮台氏が紹介しているパーソンズの考え方になるだろうか。宮台氏は次のように書いている。

「この用法は今も見られます。第三回で説明したように、パーソンズは均衡システム理論の導入が困難なので、次善の策として、諸変数を、変動しやすい/しにくいものに分離した上、前者の値を後者の存続への貢献によって説明する「構造機能分析」を提唱しました。
彼は、変動しやすい変数を「過程」、しにくい変数を「構造」と呼び、過程のあり方が、構造の存続維持に貢献する機能を果たす度合によって決まると考えます。ですが過程の間に成り立つ関係を構造に含めると背理を来すことが証明されたことは、既に紹介しました。」


「過程」というのは、一時的にその状態にとどまっているという感じがするので「変化」するものを呼ぶのにふさわしい言葉になるだろう。それに対して、「変化」しにくい対象を呼ぶ言葉としては「構造」という言葉がふさわしいだろう。「構造」は一時的にそうなっているのではなく、一定の期間そのような状態を保つ働きを持っているように見えるからだ。

ここで語られている「構造機能分析」の背理というのは論理に関心のある人間としてはたいへん興味深いものだ。「過程の間に成り立つ関係を構造に含める」ということの意味が今ひとつつかめないので、どこが背理に陥るのかということがイメージできないではいるが。「変化しない」構造に「変化する」過程を含むことに背理という矛盾が生じる原因が見られるのだろうか。どこかに詳しく解説されているものがあれば読んでみたいものだ。

「構造」というものを辞書的に、その言葉のイメージから概念を考えると上のようなものがつかめるのではないかと思う。この辞書的な意味の延長になるようなパーソンズの「過程」と「構造」の対比の概念は、残念ながら現代社会を分析する道具としては役に立たなかったようだ。それでは、この「構造」概念を役に立つような形にする新たな発想の概念はどのようなものになるだろうか。

宮台氏は次のような書き方で新たな「構造」概念がどういうものになるかを示唆している。

「ここで注目したいのが、証明者であるヘンペルやアシュビーが、構造を、過程の間に成り立つ関係、すなわち、諸変数の間に成り立つ関数だ、と理解したことです。理科系では完全に一般的ですが、こうした考え方が出て来る所以を、十分に理解する必要があります。」


ここでは変化しやすい「過程」を変数として捉えて、その変数の間に成り立つある種の関係を関数と捉えることによって、関数のほうを「構造」と呼ぶという概念が語られている。これは、変数はそれが定義域に入っているものなら任意にどの値をとってもいいという自由度が変わりやすさを表現し、関数はそれが従うものとしてその関数が成立している限りでは関数自体は変化しないという面で代わりにくいものを表現していると考えられる。また、関数は数学的にはある集合を、単にものの集まりとして捉えているのではなく、そこに関数で示される仕組みがあるという捉え方にもなる。

数学の群論などでは、群という「構造」を示すのに、二つの変数に一つの集合の要素を対応させる関数を考える。この関数がある種の条件のもとにあるとき、そこに群という「構造」があるという見方をすることになる。

この関数をもっと卑近な例として考えると、次のようなものが「構造」として考えられる。宮台氏のあげる例は次のようなものだ。

「諸変数の値は変わっても(1)諸変数の変域や(2)諸変数の間の関係は変わらない。カメレオンの色が変わっても(1)変わり方の幅や(2)どんな時にどう変わるかは変わらない。これを構造と呼ぶ。骨格も内臓配置も結局は、要素の絶対位置でなく位置関係を構造と呼ぶのだと。」


「構造」の概念が、このように関数としてイメージされるのは、宮台氏によれば、「構造概念が着目する変わりにくさは、大黒柱のような「目に見えるもの」から、諸変数
の間の不変な関係とか、変換によっても失われない位相的性質とかいった「目に見えないもの」に移行しました」と説明される。これは、「構造」の概念がより一般化されて文脈が自由になったといえるだろう。この「構造」の概念なら、現代社会をシステムとして捉える見方に役立てることが出来そうな感じがする。なぜなら、システム自体もそれを直接見ることが出来ないように思われるからだ。見えるのは各要素の間で何がおきているかという、変数の変化だけで、関数そのものは直接見えないような気がする。これは、関数に注目する意識があって初めて見えてくるものになるのではないだろうか。

さて、このような前提を元にして宮台氏が定義する「構造」の概念は次のようなものになる。

「社会システム理論では、「目に見えるもの」から「目に見えないもの」への移行にもかかわらず維持されつづける構造概念の機能に注目した上で、「選択の前提になる先行的な選択」を「構造」と呼びます。但し時間的な先行ではなく、論理的な先行を問題にします。」


これは、前回の講座で語っていた「地平」と「主題」という概念で理解するものになるだろう。「選択の前提になる先行的な選択」とは、「地平」を選ぶことになる。「コップ」と呼ばれる対象を「コップ」と表現した時は、それがどのような使われ方をするかという「用途」を問題にするという「地平」を選んだために、そのような呼び名が選ばれたと考えられる。もし「素材」という「地平」を選ぶなら、同じ対象であってもそれは「ガラス」という呼び名が選ばれるだろう。

対象に対してある呼び名を選ぶということを一つの関数と考えれば、任意の対象は変数に当たるものになる。これの「地平」を選ぶということは、関数の定義域や値域を決定するということに相当するだろう。これによって、その地平では何が対象になるか、その対象の間にはどんな呼び名があるかという面で関係がつけられるということになるだろう。関数というイメージが強すぎると、「構造」は数学世界の中の出来事に限定されてしまう感じがしてくるが、「選択の前提になる先行的な選択」というイメージにすると、ものを考えるときの人間の思考の働きにおいてすべて「構造」を捉えることが出来るようになるだろう。社会を考える道具として使えそうだ。

この「構造」概念について、さらに重要な点は次のものだと宮台氏は指摘する。

「社会システム概念の中で構造概念は以下のように位置づけられます。第三回に述べた通り、システムは環境に対して開かれることで上方ならびに下方に開かれていて、だからこそ個体が死ぬと臓器や細胞のレベルでも死が訪れました。以下のように模式化できます。
この模式で言えば、より下位のループにとって、より上位のループは、選択に論理的に先行する選択という意味で「構造」です。より上位のループにとって、より下位のループは、選択に論理的に後続する選択という意味で「過程」です。注目するべきは相対性です。
あるループが構造なのは、より下位のループに対してです。下位のループに対しては構造であるようなループも、より上位のループに対しては過程となります。与件が構造なのか過程なのかは、上下隣接するどのループとループを取り出すかによって、変化します。」


システムのループにおいて、「上位」「下位」という概念が、「構造」「過程」という概念に対応することが指摘されている。ここには、「構造」が同時に「過程」であるという、弁証法的同一性が見られることが指摘されている。三浦さんの言葉で言えば、この二つの概念は相対的に独立しているといえる。ある視点からは「構造」と見られるものが、別の視点からは「過程」として見られる。この相対性が社会システムの分析においては重要になるということがここで指摘されている。

この重要性は「機能的に抽象化された「選択に論理的に先行する選択」としての構造概念を手にし、かつ準拠フレームを意識的に操縦することで、私たちは、変わりにくさとしての構造概念や、関数としての構造概念に拘泥していては得られない、様々な発見へと導かれるでしょう」と宮台氏によって結ばれている。「さまざまな発見」は、これ以後の講座で説明されていくのではないかと思う。新たな概念の獲得が、世界を切り取って、いままでは見えなかった世界の本質を見させてくれるという経験をさせてくれるのではないかと思う。