「特定人称性/汎人称性/奪人称性」の概念


「連載第二一回:法システムとは何か?(下)」の終わりの部分で、宮台氏は、ルーマンの「法的決定手続が予期の整合的一般化」をもたらすという考えがはらんでいる問題を解決することを目的として、表題にあるような「特定人称性/汎人称性/奪人称性」という概念の説明をしている。これが、本当にそのような目的にかなってるのかということを論理的に理解してみたいと思う。

論理的に理解するということは、現象を観察して、宮台氏が主張するような事実を見つけて納得するということではない。つまり、ある事実を知ることによって「そうだなあ」というふうに思うのではないのだ。宮台氏の主張は、あくまでも論理的な流れとして、ある種の推論の帰結として提出されているという理解をすることだ。

このような論理的な理解をするには、仮言命題と呼ばれるものが大切になってくる。仮言命題こそが論理的な推論を明らかにする道具なのだ。宮台氏が大前提としている出発点となる命題が何なのか。それが仮言命題の最初の前件となるものだ。そしてその前件を持つ命題は、どのような法則性を持っているか。その法則性が、確かに仮言命題として妥当に導かれるものであれば、最初の結論は論理的に理解できる。宮台氏が語る主張の最後に当たる部分(目的とするルーマンの不備を解決するという主張)は、単純な仮言命題で導かれるものではなく、複雑な仮言命題の鎖でつながれているものだと思われる。その鎖を、一つ一つのつながりが納得できるように解きほぐして論理の飛躍を埋めることで、その論理の流れを理解しようと思う。

さて、宮台氏の論理の展開は、ルーマンの理論が持っている不備を解決するということが出発点であるから、まずはルーマンの理論の不備を正しく理解することから始めなければならない。それは一体どのような指摘として理解したらいいだろうか。ルーマンの発想は、次のように宮台氏は解説している。

ルーマンも、原初的社会を参照しつつ、法を「予期の整合的一般化」、即ち内容的一般化と時間的一般化と社会的一般化が重なることだと定義します。つまり、文脈自由な一般範疇で行為に言及する規範的予期を社会成員一般が抱くとの認知的予期です。」


「内容的」「時間的」「社会的」という言葉がついた「一般化」に対して、これが同じ内容を持つという主張が「整合的一般化」だというふうに理解できるだろうか。これらが社会において一般的になるということは、社会性員一般が「規範的予期」を抱くということで確かめられると考えているようだ。そして、そのようになるだろうということがルーマンの「認知的予期」として語られている。これが上の解説の解釈だ。

ルーマンはなぜこのような認知的予期を持つのかといえば、それが「制度の制度」としての法的手続きの存在から来ると考えられる。ここでの仮言命題は、次のような連鎖になっているのではないだろうか。

  • 法変更の手続きは、制度である <ならば> それは社会に認められる

        ↓

  • 社会に認められている <ならば> 法変更という事実も社会に認められる

        ↓

  • 法変更が社会に認められる <ならば> その事実は一般化する(誰もが知っている)

これに対して提出する宮台氏の疑問は、「大半の人々が判決や法律を知らないという伝達問題」を考えると、「社会的」一般化が達成できないだろうということだ。「内容的」な面では、「制度の制度」によって一般化が出来そうだ。「時間的」は、手続きが行われるという時間経過で一般化の判断ができる。しかし、誰もが知っているという「社会的」な一般化は、知らない人が多いという事実によってそれが否定されるだろう。

ルーマンの理論は、「高文化段階と実定法段階の区別」に対してはその理論が説明することが出来た。憲法最高法規であることは制度として存在しているものの、その変更手続きに対しても制度として存在していれば、実際にそれが変更されることの整合性も制度によって説明される。人々が単にそう思っているだけという「言語ゲーム」的な現象の捉え方だけでなく、制度というものの存在によって、その法現象の安定性が説明できる。根拠のない習慣的な行為として不安定な、信頼性の薄い対象にならずに、法的決定には誰もが従うという安定性を制度がもたらすと考えることが出来る。現実に合わせて法を変えたとしても、それはご都合主義的に恣意的に変えたのではなく、原則としての制度があって、それにしたがって変えたと理解できる。

このような法システムとしての理解は、社会的一般化を前提とすることによってシステム(制度)としての安定が確保されるのではないだろうか。もし社会的一般化(誰もが知っている)という前提がなければ、法現象として観察できる事実も、論理的に帰結されるものではなく、単に今現在そうなっているだけという、根拠が求められない偶然性に支配されたものになってしまうのではないだろうか。一般化の整合性が確認できないと、せっかくハートの不備を埋めたルーマンの理論も、現実とは関係のない抽象的な「社会」に対して成立するだけの、論理的整合性を取っただけのものになってしまうのではないだろうか。

論理的整合性を持った抽象的な対象は「モデル」と呼ばれるが、この「モデル」が現実をよく反映するものにするために、現実との整合性を考察すると、このルーマンの不備を埋めるには、「社会的一般化」がどのように実現されるかを説明しなければならないだろう。この説明のために役立てようとする概念が「特定人称性/汎人称性/奪人称性」というものになるのではないかと感じる。この概念は、どのような論理展開で、一般化を納得させてくれるだろうか。

これらの概念は次のように説明されている。

  • 特定人称性…予期の選択性が特定の人たちに帰属できる場合
  • 汎人称性 …予期の選択性が任意の社会成員に帰属できる(皆の決定だと了解できる)場合
  • 奪人称性 …予期の選択性がどの社会成員にも帰属できない(特定の誰かの決定だとは了解できない)場合


これらの概念に関係して、宮台氏は次のような指摘をしている。

「原初的な法では、慣れ親しんだ自明性ゆえに、整合的に一般化された予期が存在するので──責務を課し合うゲームが齟齬を来さないので──、血讐を宣言する当事者の決定は、自ずと汎人称性を帯びます。即ち誰が当事者でも同じ決定をすると認知的に予期されます。 」


「慣れ親しんだ自明性」は、自明であるがゆえに、その社会の誰もがそう理解することになるだろう。それが「自明」ということの意味だ。だからこそ「自ずと汎人称性を帯びます」ということが帰結されるのだと思う。しかし、この自明性が近代社会では失われてしまう。見知らぬ他人の中で生きる大衆社会になるからだ。

やられたらやり返すという「血讐原則」も、それが社会成員の予期として誰もが知っていれば、「やられたからやり返したのだ」という理解の下で、「血讐」はそこで終わるという。「終わりなき復讐連鎖」にはならない。だが、そのような予期がなければ、「やり返した」ことを「やられた」と理解する人間が多く出てきてしまう。そうなれば、その「やられた」事に対してまた「血讐」を繰り返すことになるだろう。ここには「終わりなき復讐連鎖」が生じる。

これを避けるために、「高文化段階では「権威ある裁定者」の役割が登場」するという。これは、誰もがそう考えるということから、ある特定の権威あるものがそう考えると受け止めるのであるから、「汎人称性」から「特定人称性」へと変化すると考えられる。しかし、大部分の人は、権威ある人がそう考えるのだから、権威のない大衆はみんなそう考えるのが正しいと受け止めるのではないだろうか。これは擬制だという。なぜなら「権威ある裁定者は、慣習規範と異なる場所から裁決規範を持ち出」すからだという。

普通の人々が考える慣習的なものを原則にするのではなく、たとえば「社会空間のまだらをカバーする「神聖な法」を持ち出すのがイスラム法」などがそれだという。「近代実定法へと繋がるのは、裁定の累積(コモンロー)や専門家による培養(ローマ法)を通じ、裁決の決定前提を法テキストに書き留める場合」だという。これらの権威によって選択される決定というのは、現実的には、権威あるものという「特定人称性」を帯びているように見えるが、その権威を支えるものは、特定の個人ではなく、個人を超えたものになる。したがって、これは見かけは「特定人称性」のように見えるが、実は「奪人称性」だと捉えたほうが正確だと考えられる。

宮台氏は、「汎人称的であり得ない決定を、奪人称化するのは、法的決定を特殊利害から有効に隔離するためです」と指摘する。さらに、宮台氏は

「神ならざる人が練り上げたにもかかわらず奪人称的な法的決定前提を持ち得た社会だけが、法変更の合法化を法テキストの全域に及ぼし、法変更可能性の持続的法体験を与える実定法に道を開きます。法変更は社会成員一般を拘束する政治的意思決定が生み出します。」


と語っている。「奪人称性」が論理的な帰結として「社会的一般化」をもたらすというものとつながる論理がここに語られている。それが制度として成立しているという事実性だけではなく、「政治的意志決定」というプロセスによってその制度が維持されているということが、「奪人称性」という概念から見えてくる。それは誰かが語ったから法として成立するのではなく、形として、社会成員の大部分がその法変更に賛成したという形式を持つからこそ「社会的一般化」が論理的に帰結されるということになるのではないだろうか。

宮台氏は、この次の講座では、最後の社会システムの説明として「政治システム」を取り上げている。これも論理的なつながりがあると考えられるのではないだろうか。


宮台氏は、最後に

「かくして法進化史を通じて法的決定は必ず非特定人称化されています。ただし、非特定人称的な決定が全て法的ではあり得ません。社会成員一般が受容することを認知的に予期できることを正統性と呼びますが、非特定人称性は法的決定の正統性の必要条件なのです。」


と語っている。最後の必要条件という言葉が論理にとっては面白い対象だ。これは「AならばB」という仮言命題において、BをAの必要条件と呼ぶのだが、それは、BでなければAとは言えなくなるので、Aの主張のためには、Bがどうしても必要だという意味でそう呼ばれている。最後の部分を仮言命題で書けば、

 「法的決定が正統性を持つ」 ならば 「非特定人称性を持つ」

ということになるだろう。この仮言命題が成り立つことを考えるのは、論理的に面白い問題だ。