政治的決定に人々が従うための源泉としての「権力」の概念


宮台氏の「社会学入門講座」での、いよいよ最後に登場する「政治システム」の概念の理解に向かいたいと思う。「政治システム」とは「連載第二二回:政治システムとは何か(上)」によれば「社会成員全体を拘束する決定──集合的決定という──を供給するような、コミュニケーションの機能的装置の総体」というものになる。「政治」については、様々な側面が見られることだろうが、その機能に着目して、秩序維持のメカニズムを解明したい社会学(システム理論)では、このような定義(概念化)が妥当だろうと思われる。

この「政治システム」が講座の最後に登場するというのは、それなりに社会の構造を反映しているのではないかと思われる。政治こそが、現代社会の安定的な秩序の維持に決定的な要因を与えているようにも思われるからだ。現代社会というのは、慣れ親しんだ他者だけではなく、匿名の大多数の見知らぬ他者とつきあっていかなければならない社会となっている。そのような他者がどのように振る舞うかは、全く白紙の状態であれば予想もつかない不安なものになる。社会の中で、安定した秩序ある生き方ができるようには思われない。

そのとき、大多数の行動を支配する政治的決定に信頼ができるのであれば、現代社会の様々な人々の行動の現れに信頼を置くこともできる。政治的決定は、個人的な口約束とは違い、それを守るべきだということがすべての人々に了解されているもっとも信頼の高いルールである。社会の秩序を説明するのに、もっともふさわしいシステムとなるだろう。これが最後に説明されるということで、最初の方にあった問い「社会とは何か?」ということも、この概念からの連想で、「政治的決定が守られるシステムを持っている」社会を、安定した社会と呼ぶことができるのではないかと思う。

さて、「政治的決定はどうして守られるのか?」ということが問いとして提出されるということは、それが守られない可能性があるにもかかわらず、現実に守られている要因は何かということを求めることになる。守られない可能性というのは、人間が持っている意志の自由に関わるものだと思われる。人間は選択の自由という形での意志の自由を持っている。それは、自然科学の法則のように100%確実に未来が予測できる対象でさえ、あえてそれに反した選択をすることができるということで意志の自由を持っている。破滅への自由といったものになるだろうか。

可能性があるにもかかわらずその可能性が実現されない。それは、その選択肢を選ぶときに、何らかの圧力が働いて、特定の選択肢を選ぶようにシステムの機能が働くためだと考える。それは何だろうか。すぐに思いつくのは、何らかの利益がある方を人間は選択するのだとする合理性の要因だ。人間は、あえて不利益を選ぶこともできるのだが、たいていの場合は利益のある方を選ぶという合理性があるなら、それが圧力として働きシステムの機能に影響すると考えられる。

利益となる方向と、利益にならない方向とがあったとき、人間は利益になる方向を選ぶという命題は、かなり確からしいもののように見える。仮言命題で書けば、AとBという二つの選択肢があったとき、次のような推論が妥当なような気がする。

  • AよりもBの方が利益が大きい <ならば> Bの方を選択する。
  • AよりもBの方が利益が大きい。

この前件肯定式によって、Bの選択が論理的に帰結する。人間の選択を、このように利益という観点からとらえれば、その選択はゲーム理論というもので考察することができる。これで政治システムの選択が、多くの人が同じ選択をすることで社会が安定するという了解ができるようになるだろうか。しかし現代社会というのは、これだけでは少々単純すぎる理解のような気がする。一方では当事者にとって最大の利益をもたらすはずの選択が、むしろ選ばれないことが多いという現象さえ見られることがある。あえて不利益を選んでいるのではなく、不利益であることに我慢して(甘んじて)それを選ばざるを得ない場合すら生じる。単純なゲームとして政治的選択をとらえることができない。

このような現象に対する解釈として、なるほどと思わせてくれるものが宮台氏が提出する「権力」の概念だ。我々が社会の中で行う選択は、自分の利益にとって最大となるものが無前提に選ばれるのではない。その選択をすることで派生する影響が、他の面でむしろ不利益を呼ぶという場合がある。そうなると、その不利益を避けるために、最大の利益となるように見えるものをあきらめるということも起きてくるわけだ。この、最大ではないけれど、現状ではもっとも望ましいと思われるような、不利益を押さえられるような選択をすることが現実には行われる。

個人にとって最大の利益をあきらめさせて、現状での最適な選択の方へ向かわせる圧力こそが、宮台氏が「権力」と呼ぶものだ。「権力」とは、「ある人が自分の行為が引き出す相手の行為(が招く社会状態)を予期し、理想的状態(を招く筈の行為)を断念して次善的状態(を招く相手の行為を引き出す行為)に甘んじる場合、権力を体験しています」というように語られる行為をもたらす圧力なのである。

この「権力」は、個人にとっては、最大の利益をあきらめさせるものなので、個人にとっては邪魔なもの・弾圧されるものとして感じられる。僕にとっての「権力」のイメージも以前はそうだった。「権力」は民衆を弾圧するものとして僕の中に登場していた。「権力」はある意味では悪いものというイメージがあった。しかし、宮台氏の主張はそのようなイメージとは違う。むしろ、個人の暴走を食い止めて、社会の安定をもたらす機能を「権力」に求めているようにも感じる。「政治システム」における重要な要素なのだ。

政治システムの決定に人々が従うということには、どうやら「権力」というものの働きが大きいということが分かった。そして、この「権力」に対して、宮台氏の理論は「予期理論」という名前がついていた。「権力」というのは、実際には強大な現実的な力(警察権力や軍事力など)を持っていて、それを恐れさせることによって権力の意志を貫徹するように見える。だから、民衆が弾圧されて、嫌々ながら従うというようなイメージが強くなる。だが、権力の支配の本質は、実際の力による弾圧をするよりも、人々の予期の中に、そのような恐れを抱かせて、それを避けるためにある種の選択を選ばざるを得ないようにさせるという形になっていると説明される方が納得する。

また、この予期が発達することによって、嫌々ながら決定に従うのではなく、その決定に進んで従うという現象も出てくる。それは決定の合理性を納得することによって従うということもあるだろうが、権力への信頼から、権力が決定したことに間違いはないという了解から従うという場合もある。このような了解と信頼は「正統性」という言葉で宮台氏は語っている。

同じ読み方をする「正当性」というのは、そこに語られている道理が正しいということを理解して判断する合理的な思考から得られる。しかし、「正統性」の方は、それを合理的に判断したのではなく、それが今までも信頼できるような対象であったという経験や歴史から、そのようなイメージができあがり、それから生まれてくるものになる。「権力」というものが大衆を統治するとき、力を背景にして弾圧によって政治的決定を押しつけるなら、それに抵抗する人間も出てくるだろうし、力で押さえていたものはそれ以上の力に出会ったときにはもろいという面も出てくる。統治権力にとっては、力による統治から、正統性による統治に変えていくことは、権力維持という秩序のためには最も有効な戦略であると思われる。

「権力」というものが、単に民衆を弾圧するだけのものという見方ではなく、このような複雑な面を持っているという見方をするなら、それが単に「悪」だという先入観で理解するような単純なものではなく、社会の秩序維持のためには不可欠のものであり、それに対してむしろ積極的にコミットすべき対象であるという理解も出てくる。それは単純に倒すべき相手だと理解するだけでは間違いなのだ。

現実の「権力」は、いつも間違った方向へ向かっているように見える。財政の破綻をしたのも、その見通しの甘さと利権の構造が国民全体の利益を損なったからで、それが防げなかった権力はそこに腐敗が見える。年金財源が破綻したのも、権力がそれを合理的に運営できなかったからで、権力を信じた我々が間違えていたように感じる。権力は、なぜいつも間違えているようにしか見えないのだろうか。

それは「権力」が扱う問題がとても難しい問題で、そこに絡んでいる利害を解きほぐして、誰の利益を優先させて、誰の利益を後回しにするかという判断が難しいからではないかと思う。たいていの場合に日本社会では、権力に近い人間のコネが及ぶ範囲の利益が優先される。そうすれば、日本全体の利益という観点からは、常に間違った方の選択がされることになるだろう。この権力の構造は果たして変えることができるのだろうか。もし変えることができなかったら、今でも信頼が落ち込んでいる日本の統治権力は、これからますます信頼を失い、「正統性」が失われていくだろう。社会の秩序の維持に大きな支障が出てくるのではないかと思う。

社会の秩序を回復し、社会をいいものだと感じることができるようにするためには、今ある権力を倒すだけでは不十分だろう。それを賢い権力に作り直さない限り、複雑な現代社会の秩序は回復しないのではないだろうか。賢い権力とはいったいどういうものなのか。それは、政治的決定が「正統性」を持つように、それが常に正しい方向を向いているという信頼を回復することだろう。個人的なコネで横やりを入れられて、合理的な判断が覆されるようなシステムを壊さなければならない。それをすると宣言して登場した小泉さんでさえ出来なかった困難な仕事がこの先行われると期待できるだろうか。

現代社会は民主主義の社会だ。大衆的決定が政治的決定を支配する。そのようなメカニズムからいえば、大衆が賢くなることが権力を賢くさせることでもある。このことに関しては、宮台氏はあまり期待していないような感じもするが、大衆教育の現場に関わっている人間としては、大衆が賢くなる可能性の方を信じたいような気もする。統治権力のプロパガンダにだまされない、自分の頭で判断するような大衆が増えるということを期待したい。

そのためにも、現代社会で政治的決定が守られる、つまり政治的決定が民衆を拘束するというメカニズムを正しく理解したいと思う。宮台氏は、「問題の「拘束」とは、「権力連鎖」の形成戦略と、服従蓋然性を触媒する「権力の人称性」の了解操縦戦略との、組合せによって調達されるものです」と語っている。この命題の具体的内容を理解することによって、我々がどのようなメカニズムで統治権力に支配されているかということがよく分かるようになるだろうか。

もしそれがよく分かるようになれば、我々はそのような支配に反旗を翻すのではなく、その支配をもっと合理的なものにするように権力に求める方向を考えた方がいいのではないかと思う。権力をなくしてしまえば、そこに残るのは混乱だけだ。イラクアフガニスタンの状況を見ると、そのことの正しさを感じるのではないだろうか。権力をなくすのではなく、もっと合理的に統治する権力をこそ求めなければならないのではないか。そのために支配のメカニズムを学びたいと思う。いよいよ最終回の講座ではそのことが説明されているのかもしれない。