レヴィ・ストロースのすごさ


構造主義を語るときに、人類学者のレヴィ・ストロースは絶対に欠かせない重要な人物となっている。「親族の構造」の解明こそが、構造主義の歴史における金字塔として紹介されている。だが、今までの僕は、このレヴィ・ストロースの業績に対して、いったいどこがすごいのかということが分からなかった。確かに、世界で初めて構造というものに注目してその理論をまとめたという先駆者性は認めるものの、それは単に一つの解釈を提出しただけではないのかという思いがあった。

インセスト・タブーと呼ばれる近親相姦の禁止の習慣を、それは女の交換というものを生じさせるためだという、人々を驚かせるような意外な理論を提出したところにすごさがあるとも思えない。だいたい、この理論の正しさを僕はよく分かっていないので、これが本当に正しいと確信できなければ、この理論を提出したことのすごさというものが実感としてわいてこない。これは本当に正しいのだろうか。正しいと言われているから、何となく正しいのかなという感じを持ってしまうが、これは論理的にそのような結論が明確に出るのだと、論理の流れを構築できるものなのだろうか。

レヴィ・ストロースは有名で、誰もがそのすごさを口にするから、何となくすごいと思わないといけないような気がしてくるが、実感としてそういう気持ちになれないので困っていた。何とかしてそのすごさを実感したいと思ったが、レヴィ・ストロースの解説書をいくつか読んでもなかなかすごさが伝わってこなかった。しかし、『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾、板橋作美浜本満 共著、清水書院)を読んで、ようやくそのすごさを実感することが出来た。この本の第二章を浜本氏が執筆しているのだが、そこで語られている「親族の基本構造」の解説を読んで、初めてレヴィ・ストロースのすごさを感じることが出来た。

レヴィ・ストロースは、婚姻の規則を解析して、そこにクラインの四元群と同じ構造を見いだしたという。これは、ものすごく画期的なことに見えるかもしれないが、数学をやってきた人間からは、それほどたいしたことには見えない。レヴィ・ストロースが解析した婚姻の規則というのは、かなり機械的に限定されているもので、たとえば交叉イトコとの婚姻しか許さないという厳格なものだった。例外を許さないある規則があって、それに従って何らかの操作がされるのであれば、その操作が数学的な性質を持つのは、ある意味では当然のことではないかとも思える。機械的で例外を許さないのであれば、それは全く数学の計算と同じだといっていいからだ。だから、レヴィ・ストロースが扱った対象が数学的な構造を持っていたということはそれほど驚くことには思えなかった。これも、最初レヴィ・ストロースのすごさがよく分からなかったところだ。

また、内田樹さんは『寝ながら学べる構造主義』の中で、レヴィ・ストロース二項関係を軸に対象を分析したことをとらえてすごさを語っていたが、これも抽象化という一般論的なものの発想でいえば、抽象化さえすることが出来れば、物事はすべて二項関係でとらえられるというのは、今のデジタル化された情報を見ると、現在に生きる人間にはそれほどたいしたものだとは思えないだろう。だから、レヴィ・ストロースが現在のデジタル情報があふれた時代ではないときに、先駆者としてそのようなことが出来たことが想像できる人なら、ここにすごさを感じることが出来るかもしれない。だが、残念ながら僕はすでにデジタル情報に慣れすぎてしまった。

僕が感じたレヴィ・ストロースのすごさはこのようなところではなかった。前出の新書では、「体系の視点」というもので語られていた。ちょっと長いのだが引用してみよう。

「体系とかシステムとかいった場合、普通には何を考えるだろうか。それはいくつかの要素からなる全体、あるいはいくつかの要素が集まって出来た何かであろう。もっとも体系というからには、それらの要素は単にでたらめに集まっただけではなく、互いに関係を持っているはずである。そしてもしその要素のうち一つが変わると、他の要素もそれに応じて変化することになるだろう。単に体系というだけであれば、通常はこの程度の理解で事足りる。
 しかしこのとらえ方の中には、体系の要素を「モノ」と見なし、従って体系をそうした「モノ」の集まりであるようなそれ自体一つの「モノ」と考えてしまうという傾向が潜んでいる。つまり個々の要素が、あたかもそれ自体で存在する実体であるかのごとく見なされ、次いでこれらの実体が互いに何らかの関係によって結びつけられて出来たものとしての体系が考えられるのである。ここでは結局のところ、実体としての要素が体系を決定していることになる。こうした見方を体系についての実体論的な見方と仮に呼んでおこう。
「体系の視点」はこの実体論的な見方とは正反対の位置に立つ。つまり体系が要素を決定するとする見方である。それによると要素間の関係の方が重要なのであり、体系の諸要素は、逆にそうした関係の二次的な産物であるということになる。つまりそれは、体系を「モノ」抜きの諸関係の総体として見る立場である。これを体系についての関係論的な見方と呼んでおこう。これは一見非現実的に見えるかもしれないが、実際には、実体論的な見方の混入の方が、体系概念にとってはいささか邪魔ものとなるのだということが分かる。」


この解説の中に僕はレヴィ・ストロースのすごさを見たと思った。この「体系の視点」は、現在に生きる僕でさえも「目から鱗が落ちる」と感じるほど衝撃的な逆転の発想のように見える。デジタル情報などは、それに慣れてしまえばあまり衝撃は感じないが、この「体系の視点」は、個別的な世界に生きるしかない個人にとっては、常に衝撃的なものとして新しい視点を教えるのではないだろうか。

我々に観察できるのは実体としての存在だけだ。どうしてもそれが目に入る。たとえば社会を考えるときに、我々が目にするのは人間が行う行為(行動)だけだ。しかし、板倉聖宣さんが指摘するように、個人の行動がそのまま延長されて社会だと考えると間違える。個人は見えるが、社会は直接は見えないのだ。社会という存在は、肉体的な目で見るのではなく、レヴィ・ストロースが指摘したような「体系」としてとらえない限り、その本当の姿は見えてこない。

「体系の諸要素は、逆にそうした関係の二次的な産物である」というのは、それを短絡的にとらえれば、人間の観念の中に存在する「体系」というものが物質的存在を生み出すのだという、観念論的妄想のように聞こえてしまう。構造主義が、唯物論の立場から批判される原因がこのようなところにあるような気がする。しかし、これはもののとらえ方の問題ではないかと思う。文字通り、観念が物質を生むなどというような短絡的な理解をしてはいけないのだと思う。

たとえば、人間は動物として産み落とされれば、つまり物質として存在を獲得しさえすればそのまま人間になるものだろうか。人間というのは、社会の中で生きることで、人間としての資格を獲得するのではないだろうか。社会から隔離されて育った、オオカミに育てられた子供の話などは、社会の中で育たなかった人間は人間にはならないことを教えるのではないかと思う。このような事実を、社会という「体系」が、人間という個体を生み出したと解釈することは出来ないだろうか。それは、物質としての人間を生み出したのではないが、人間という属性を持った存在を作り上げたと解釈することが出来るのではないだろうか。「体系の視点」として語られる、構造主義的な発想は、まさにそのようなものを指しているのではないだろうか。これは逆転の発想であり、まさに「目から鱗が落ちる」というもので、このようなことを語るレヴィ・ストロースのすごさを感じるものだ。

数学のような対象は、それを「体系の視点」で見るのはたやすい。構造という発想が数学で最も早く生まれたのは、それが元々体系の視点で見ることを容易にするようなものだったからではないかと思う。それは、現実に存在している実体が先行して、実体の属性がその思考の展開に影響を与えるものではなかったからだ。数学的対象の属性は、思考を展開しようとするものが自由に与えることが出来る。体系そのものを自らが構築できるのが数学の特徴でもある。このような視点での数学は、体系がその要素を作り出すということが実感できるだろう。

しかし、現実に存在する物質的なものに対しては、その考察に際して、どうしても現実にあるということが思考の展開において影響を与え続けるだろう。体系を抽象することが不十分になり、全体性をとらえることが困難になる。現実に対する知識が、個別的なものだけに限られていれば、それは体系を必要とせず、具体的な存在(実体)を観察することで済ませられるかもしれない。しかし、全体性を把握したいと思えば、それは必ず「体系の視点」を必要とするのではないだろうか。

考えてみると、自然科学というのは「体系の視点」で自然をとらえることで、その普遍的な法則性を考察することが出来るようになったのではないかと思える。自然の全体が、ある種の抽象化されたモデルで代表できるというのは、その抽象化された体系から、自然科学の対象である存在が生み出され、その属性が生み出されると解釈するからこそ論理が展開できるという関係にあるのではないだろうか。

自然科学の対象は、人間の意志からは独立に存在している物質だったので、それをある意味で理想化して単純化するという抽象がしやすかったかもしれない。しかし、人間が関わる社会科学的な現象に対しては、その複雑な現実の姿を観察しているだけでは、全く論理として展開できるような要素が見つからなかったのではないかと思う。論理が使えるような対象に作り替えることが出来たのは、現象を「体系の視点」で見直して、そこに体系を見ることが出来たからではないだろうか。

すべての科学の基本にこの「体系の視点」があるのなら、ソシュール言語学を科学として打ち立てたという言い方も何となく分かるような気がする。ソシュールは言語における「体系の視点」を提出したのではないかと思う。そして、レヴィ・ストロースは、人類学における「体系の視点」を提出したのだろう。

ついでに考察をもう一歩進めると、宮台真司氏が提出していた社会学の見方も、実は「体系の視点」で社会を見ることによって理論が展開されていたのではないかと思う。そして、「体系の視点」だからこそ、それは実体よりも機能の方が重視されていたのだと言えるのではないだろうか。「体系の視点」で対象を語るときは、対象の本質が機能として見えてくるのではないだろうか。

「体系の視点」は正しい観念論ではないかと思う。それは物質そのものを生み出すと言っていないので、妄想的な観念論ではない。しかし、「体系」という、明らかに観念に属する対象だと思えるものが、現実の存在に大きな影響を与えることを主張するという点で、それは物質的存在を基礎において、その存在の属性から思考を出発させているとは言えないもののように思う。発想としては観念論のように思う。しかしそれは正しいのではないかと今は感じている。唯物論や観念論の問題も、それらが絶対的に正しいとか間違っているとかいう議論は、あまり生産的ではないような気がする。時と場合によってどちらも正しい場合があると理解した方がいいのではないかと今は感じている。