仮言命題の妥当性


現実の具体的な論理の展開においては、そこで使われる仮言命題は具体的な内容を持ったものになる。内容を捨象されたAとBで表されるようなある命題を使って「AならばB」という形の仮言命題を使って論理を展開することはない。このように抽象的に表現された仮言命題は、一般的には妥当性を評価することが出来ないからだ。AやBの具体的な内容によって、それが正しくなるかどうかが決まってくる。

「独身ならば結婚していない」というような仮言命題を考えてみよう。これは誰が考えても100%妥当な仮言命題として判断される。それはどうしてだろうか。これはある人物、たとえばAさんという人がいて、彼が独身だということが確認されているとする。そうするとこの仮言命題とあわせて

   Aさんは独身だ。
   独身ならば結婚していない

   故にAさんは結婚していない

という推論が成り立つ。これは絶対的に正しい。Aさんが結婚しているかどうかを戸籍を確かめなくても結論することが出来る。現実に観察をして確かめる必要がなく、論理的な判断によって断言できる。これはどのような理由からそう言えるのだろうか。

「独身ならば結婚していない」という仮言命題の正しさは、「独身」という言葉の定義から求められるものだ。「独身」という言葉はそのように定義されている。その言葉の内容(意味)が同じものとして、

  「独身」=「結婚していない」

という等式が成り立つ。そうすると、この仮言命題は、形式としては「AならばA」という仮言命題と同じになる。この形式の仮言命題は、Aにどんな命題が入ろうと、形式論理として成立する。トートロジー(同語反復)と呼ばれるものになる。言葉の定義から得られる仮言命題はすべてこのトートロジーを根拠にして正しいものと判断されるだろう。このときの妥当性は100%だと言える。

数学における仮言命題

   虚数iを2乗するならば−1になる。

という仮言命題の正しさは、虚数の定義から得られる。虚数はそのように定義したのだからこの仮言命題はその定義からその正しさが保証される。これはどのようなことを意味しているかというと、ある事柄を新たに定義し直せば、その定義に従った仮言命題を正しいものとして提出できるということでもある。ご都合主義的な定義をすれば、それによって推論の正しさを偽装することも出来るということだ。

複雑な内容を持った対象は、その定義を巡って異論が出てくることが多い。そうすると、定義の違いによって推論の方向が違ってくる。自分に都合のいい結論に持って行くために定義を工夫するという余地も出てくるだろう。学力の低下の論議を巡って、寺脇研さんが、学力という言葉をどう定義するかで、それが下がったとも言えるし、上がったとも言える、というようなことを語っていた。それは、その学力という言葉の定義を認めるなら、そこでの論理の展開を認めなければならないということで、論理的には間違いはない。この場合は、仮言命題の妥当性ではなく、定義の妥当性を問題にしなければならないだろう。

言葉の定義の妥当性から導かれる仮言命題は、言葉の内容を分析して得られるもので、論理学的な要素の大きなものになるだろう。それは、言葉の使い方(定義)を認める限りでは100%妥当な仮言命題と考えられる。これと違って、現実の観察から得られる判断を基にした仮言命題は、100%妥当だとは言えないものになる。たとえば

    頭がよい人ならば間違いをしない。

というような仮言命題は、いつも正しいとは限らない。現実に頭がよい人でも間違えることがある。この場合も、「頭がよい」ということの定義をどうするかという問題はあるが、この仮言命題は言葉の定義から導かれるものではないと考えられる。「頭がよい」をどう定義しようがそこに「間違いをしない」ということが入り込んでこないならば、この仮言命題は言葉の定義から導かれるものではなくなる。

実際に、「頭がよい」と「間違いをしない」とはちょっと違うものだと考えると、これを定義としてイコールで結ぶことは出来ない。そうなると、この仮言命題は観察によってその妥当性を求めなければならなくなる。「頭がよい」と思われる人の行動を観察して、その人が常に「間違いをしない」という行動をしていれば、この仮言命題の妥当性は100%ということになる。しかし、時に間違いを犯すようなことがあれば、この妥当性は、その間違いの確率に応じて下がることになる。80%くらいになるか、あるいはもっと低いか。

現実の観察から妥当性が判断される仮言命題においては、その結論の信頼性はこの妥当性の確率によって決まるだろう。「頭がよい」ということでその人のやることに「間違いがない」と信頼できるのは、この仮言命題の妥当性の確率がどの程度高いかによって決まる。

このような妥当性を考える上でいい例になるのが「風が吹くと桶屋が儲かる」ということわざだろう。これは「風が吹く<ならば>桶屋が儲かる」という仮言命題として考えることが出来る。「風が吹く」という現象と、「桶屋が儲かる」という現象の間には、もちろん言葉の定義としての必然性はない。これは現象として、「風が吹く」ということの後にどれだけ「桶屋が儲かる」ということが起こるかという観察によってその妥当性が求められる。

この二つの現象を直接観察すれば、そこには論理の展開はないのだが、このことわざに関しては「風が吹く」と「桶屋が儲かる」の間にいくつかの仮言命題を挟んで、それが論理的に展開された結論として求められている。次のような仮言命題の連鎖が考えられている。

  • 1 「風が吹く」ならば「砂埃が舞う」
  • 2 「砂埃が舞う」ならば「砂が目に入る」
  • 3 「砂が目に入る」ならば「目が悪くなる」
  • 4 「目が悪くなる」ならば「その人は三味線を弾くようになる」
  • 5 「三味線を弾くようになる」ならば「三味線が必要になる」
  • 6 「三味線が必要になる」ならば「皮を取る猫が必要になる」
  • 7 「皮を取る猫が必要になる」ならば「猫が捕獲されて減る」
  • 8 「猫が捕獲されて減る」ならば「猫に取られるネズミが減る」
  • 9 「猫に取られるネズミが減る」ならば「ネズミの数が増える」
  • 10 「ネズミの数が増える」ならば「ネズミにかじられる桶が増える」
  • 11 「ネズミにかじられる桶が増える」ならば「桶を新しく買う人が増える」
  • 12 「桶を新しく買う人が増える」ならば「桶屋が儲かる」

長い鎖の仮言命題の一つ一つは、「風が吹くと桶屋が儲かる」ということわざよりも、何となくありそうな感じがするような仮言命題に変えられている。この仮言命題がすべて100%妥当なものであれば、「風が吹くと桶屋が儲かる」ということも確実に起こることとして論理的判断として帰結される。しかし、上の12個の仮言命題を見ると、どうにも妥当性が低いものが多いのを感じるだろう。この妥当性を確率で考えると、「風が吹くと桶屋が儲かる」という最終的な仮言命題の妥当性は、この12個の仮言命題の確率をかけ算したものになる。

そうするとこの12個の仮言命題の中に、その妥当性が確率的に0(ゼロ)だと考えられるものが入り込んでいれば、それだけですべてのかけ算の答えは0(ゼロ)になってしまう。現実の具体的な仮言命題を使った推論では、その仮言命題の一部に妥当性が0(ゼロ)になるものがあれば、それだけでその推論の妥当性は0(ゼロ)になる。これは、たとえ0(ゼロ)でなくとも、0(ゼロ)に近いものであればやはりかけ算の結果は0(ゼロ)に近くなる。

また、仮言命題の鎖がかなり長くなった場合は、一つ一つの仮言命題にある程度の妥当性、たとえば平均して90%くらいの妥当性があったとしても、それをすべてかけ算すると意外なくらい低い確率になってしまう。12個も鎖があるとそのかけ算の答えは約28%になってしまう。一つ一つの妥当性はかなり高くても、それが連続して起こるということを考えるとかなり低い可能性になってしまうのだ。推論の中で現れる仮言命題の鎖があまりにも長くなると、妥当性が100%なければ、その結論の信頼性はきわめて低くなる。これも仮言命題を使った推論の特徴として記憶しておいた方がいいだろう。

科学が確立した仮言命題は、板倉さんの科学の定義に従えば、その妥当性は100%だと考えられる。だから、どんなに仮言命題の鎖が長くなろうとも、その結論は100%信頼してもいいものとして理解される。これがもしも100%ではない、たとえば99%の妥当性だとしても、それがきわめて長い仮言命題の鎖でつながれてしまうとその結論の信頼性が低くなってしまう。ちなみにちょっと計算してみると、99%の妥当性を持った仮言命題を50回適用すると、その最後の結論の妥当性は約60%になる。このような妥当性を信頼して、果たして科学を適用するだろうか。

科学が確立した仮言命題は、言葉の定義という約束ではないが、それは100%妥当な仮言命題として受け取ることが出来る、ということが科学の進歩をもたらしたのではないかと思う。「ものはすべて原子から出来ている」という原子論は、「それが物質的存在である<ならば>それは原子で構成されている」という仮言命題を提出する。この仮言命題は、現実に存在するすべての物質に対して確かめたのではないから、その妥当性は100%ではないという主張もある。しかし、未知なる存在に対して確認が出来れば、それをある時点で100%妥当だと判断するのが板倉さんが定義する科学の概念だ。それは間違っている可能性もあるが、このように判断することによって仮言命題の鎖による推論の信頼性が確保できる。

仮言命題の鎖による推論で信頼が出来るのは、言葉の定義という言葉の内容を分析して得られる仮言命題を使うか、科学として確立された命題を使うかどちらかの場合だと言えるだろう。このとき、言葉の定義によって得られる信頼性の方は、現実から抽象されたモデルを、定義によって設定して推論を進めていく方法が考えられる。そのような方法がなぜ有効性を持っているかといえば、そこで展開される仮言命題に100%の信頼性があるからだ。それは言葉の定義によって得られる妥当性から得られる信頼性だ。

論理の展開として、このような抽象論ではなく具体的な現実に沿った展開をしたければ、そのときの仮言命題は科学が発見したものを使わなければ絶対的な信頼は出来ない。まだ仮説に過ぎないような仮言命題を使う場合は、その結論がもしかしたら現実には妥当ではないかもしれないということを常に忘れないようにしなければならない。論理が正しくても、結論が間違えていると思われる場合は、そこの推論で使われた仮言命題の内容をよく吟味することが必要だろう。