一流の学者と二流の学者をどこで区別するか


この区別は、僕の場合はかなり直感的に、いわば匂いをかぐようにして判断している。それだけに、それを言葉にして説明するのはかなり難しさを感じる。例えば、僕は、宮台真司氏を「超」がついてもいいくらいの一流の学者だと思っている。それは、初めて宮台氏の文章に接して、その1行目を読んだ瞬間にすぐにそう思うようになった。

これはすごい、という感覚はいったいどこから生まれてきたのだろうか。その論理が非常に明晰だという感覚はあった。論理展開に疑問を感じるようなところが一つもなかった。書かれていることがすべて正しいとしか思えないのだ。難しくて理解が出来ない文章も中にはある。しかし、理解出来た文章はすべてその正しさが理解出来る。宮台氏の文章はそういう文章だった。

宮台氏の印象では、もう一つその表現の的確さが深く残っている。宮台氏が語ることが、すでに自分でも考えたことのあるものだった場合は、それは非常にわかりやすい。それと共に、宮台氏に表現してもらうことによって、それまでぼんやりとしか理解していなかったことが、ハッキリとよく分かるようになった。

宮台氏が語ることは難しい対象のものが多い。だが、それを単純明快に乱暴に理解しようとするのではなく、難しい対象の難しさを失うことなく、難しいままにそれがハッキリと見えてくるようになる。ここが、もしかしたら一流と二流の分かれ目なのかも知れない。二流の学者の説明は単純明快でわかりやすいが、それは対象の難しさを切り捨てて単純にしているだけなので、対象の難しさは少しも分かるようにならない。

では、どうして宮台氏の説明は、難しいことを難しいままに理解させてくれるようになるのだろうか。宮台氏は、そのブログで社会学の入門講座を載せているが、これはたいへんに難しい文章だ。しかし、その文章を何回も繰り返し読んでいると、それがだんだんと何が書かれているかが分かってくるのだ。

これは、繰り返し読んだという回数だけの問題ではない。繰り返す読むことで、表現されている対象の論理構造がつかめるようになってくると、その論理構造の把握が正確で見事なので、そのおかげで今まで難しくて見えなかったものがハッキリと見えてくるという感じがするのだ。

三浦つとむさんも、僕は一流の学者だと思っているのだが、その三浦さんは「本質は単純である」ということを言っていた。単純であるということでは、一流の学者も二流の学者も、表面的には変わりがない。だが、一流の学者は、本質を表現してそれを単純化する。それに対して二流の学者は、本質を捉えるのは難しいので、単純に見える末梢的な部分を、単純なままに表現して、対象を分析したような気になっているように僕には見える。

一流と二流の差は、対象の本質という難しさを明確に表現することによって単純化しているのか、元々対象に属している単純な部分を、単純なそのままに表現して単純化しているかが違うのではないだろうか。このような観点で宮台氏を見ると、まさに宮台氏は、社会における難しい対象を、その難しさを失わずに、その本質をえぐり出してみせているように感じる。

僕は、学生時代に数理論理学を専門にして、論理学への関心から弁証法の学習に向かった。しかし当時、「弁証法」を解説した本はほとんど理解出来なかった。弁証法の難しさを、難しいままに明確にしてくれるような本がなかったのだ。入門書の類が、弁証法というものをよく知っていなければ理解出来ないような書き方をしている入門書だった。

ところが三浦つとむさんの『弁証法・いかに学ぶべきか』(季節社)という本を読んだら、これは驚くほどよく分かる本だった。しかも、弁証法の何たるかという本質がつかめるような本だった。弁証法の神髄は「対立物の統一」ということをどう捉えるかにかかっているが、三浦さんの説明で、この概念がハッキリと見えるようになったのだ。

現実に存在する対象を考察するときは、どのような存在であろうとも現存在であればそこに「対立物の統一」を見ることが出来る。つまり、弁証法という論理は、現実存在を対象にした論理なのである。そのことが三浦さんによって分かるようになった。どの現存在を対象にしても、必ずそこに「対立物の統一」が見えるようになったからだ。

三浦さんは、ことわざや落語を使って弁証法を説明していたが、このような説明をしている人は他に誰もいなかった。しかし、対象がことわざだろうが落語だろうが、弁証法の本質をつかんでいる人なら、そこに弁証法性を発見出来ない方がおかしい。弁証法を語ることなど考えられもしなかった対象で弁証法を語ったことによって、僕はそこに本質を見ることが出来たのだと思う。

三浦さんによって曲がりなりにも弁証法の本質をつかむことが出来たので、これによって今まで分からなかった弁証法の本を、今度は評価することが出来るようになった。その本の説明がなぜわかりにくいかが分かるようになった。そうすると、その本に書かれていた、それまで理解出来ないと思っていた難しい部分が、面白いくらいによく分かるようになった。目から鱗が落ちるという体験をすると、こんなに賢くなるのかと思ったものだ。

僕は、内田樹さんも一流の学者だと思っている。それは内田さんの『寝ながら学べる構造主義』を読んだからだ。僕は、それまでに構造主義の入門書をいくつか読んだのだが、構造主義が分かったと思ったことは一度もなかった。むしろ、構造主義というのはわけの分からない主張で、三浦つとむさんが批判したように、非論理的なことを語っているだけなのだとしか思っていなかった。

ところが、内田さんのおかげで、初めて構造主義が論じている正当な論理というものがあるのを理解した。なるほど、確かにこのような考え方なら、多くの人が構造主義に魅力を感じて、これを勉強したのも納得出来る、と思ったものだ。

三浦つとむさんが批判した構造主義だけしか知らなかったら、僕は、構造主義を唱えるだけでその人を信用しなかっただろう。しかし、三浦さんが批判した構造主義は、実は構造主義の特殊な一面だけだったのではないかと、内田さんの本を読んでからは思うようになった。肯定的に評価出来る部分もたくさんあることが分かった。

今まであれほど難しかった構造主義が、なぜ内田さんの説明を読めば分かるようになるのか。それは、内田さんが、構造主義の本質をつかんでいるからだと僕は思った。内田さんの、本質をつかむセンスは、一流の学者のものだと僕は思っている。だから、内田さんを批判する言説を見かけるたびに、その批判の論理の甘さを感じて、もっとよく理解して一流の学者にふさわしい一流の批判をしてくれよと感じてしまう。

僕だって、内田さんが無謬の完全な学者だと思っているわけではないが、今の僕の水準では、まだ内田さんの間違いを指摘するだけのレベルにはないなと言うのを感じている。たとえ内田さんが間違えていたとしても、今の僕にはそれを本質的に批判することはまだ出来ないだろうと思う。だから、内田さんを本当に、本質的に批判する言説に出会ったら、これはその批判者も一流だと僕は思うだろう。

残念なことに、そのような見事な批判にはまだ出会ったことがない。これは、批判者のほとんどが内田さんを見くびっていることが原因だと思う。内田さんの一流性を理解出来ていなければ、一流の視点で内田さんを批判することなど出来ないだろうと思うのだ。二流の視点で単純に批判出来るほど内田さんは小さな存在ではないのだ。

宮台氏、三浦さん、内田さんのほか、僕が一流性を感じる人たちは次のような人たちだ。

学者:姜尚中河合隼雄板倉聖宣小熊英二内藤朝雄野矢茂樹仲正昌樹
   小室直樹藤原帰一山田昌弘瀬山士郎、遠山啓、津田道夫、久野収
   武谷三男羽仁五郎永井均

ジャーナリスト:本多勝一鎌田慧、斉藤茂男、千葉敦子、田中宇佐高信
   森達也二宮清純

その他:佐藤忠男松下竜一、佐藤オリザ、山田太一

これらの人になぜ一流性を感じるかは、その文章を検討したときに、それがいかに見事な表現をしているかを語ることで理解してもらえるだろう。

逆に、二流だと思っている人に誰がいるかというと、これはなかなか難しい。なぜなら、直感的に二流だと感じる人に対しては、僕はよく知らないから、その直感が正しいという自信はないからだ。何となく一流性を感じないので、あまり関心を持たない。それで、第一印象で二流じゃないかと感じている人たちなのだ。

だから、二流の人を分析するのは難しい。二流の二流性を考えるには、その分析にふさわしい二流の人を見つけなければならないのだが、分析してみないと二流だとハッキリと判断することが出来ないからだ。

そういった二流候補としては、宮台氏が語っていた簑田胸喜などは、対象として考察するにはふさわしいかも知れない。その二流性を冷静に分析する対象として考えてみようかと思う。あとは、宮台氏が『正論』『諸君』の論壇を二流と形容しているので、これも二流性の分析の対象にしてみようかと思う。誰にでも知られている存在で、しかもその二流性を強く感じるような人がいれば、二流性の分析にはぴったりの対象になると思うのだが、そういう人はいるだろうか。

やっぱり感想程度の意見だった


sivad氏からトラックバックをもらったので、それを読んでみたのだが、表題のように「やっぱり感想程度の意見だったのね」という感想を持った。感想というのは、論証したのではなく、「そう思った」と言うことだ。「思う」だけならそれは何を思おうと自由だ。現代日本では、思想信条の自由は保障されている。「思う」だけなら仕方がない。

そう受け止めれば、この「証明問題とニセ科学 」というエントリーに対して特別返事をすることもないのだが、このエントリーは、論理的誤謬に対して分析をするトレーニングとして使えるのではないかと思った。

正しい論理のトレーニングというのは、自分でも例題を作れるし、その例を探すことも容易だ。しかし、誤謬の例題というのはなかなか自分では書けない。また、公開されている文章にそれを探すのもなかなか難しい。書物などは、やはりプロの編集者の手を経ているので、おかしいとは言っても、なかなか誤謬の訓練をするには難しい。このエントリーは、初歩の論理トレーニングにとってはちょうどいいだろうと思う。

まずは、僕の質問として、彼の言葉

「khideakiさんの問題は、自分または内田氏に都合のよい解釈だけを持ってきて「論理的だ」とおっしゃる点です」

で語った判断の根拠になるものを示さなければ、これは単なる感想ではないかということについて考えてみよう。もしこれが単なる感想でなければ、「自分または内田氏に都合のよい解釈だけを持ってきて」と言うことがもっともだと受け取れるような所を指摘しなければならないだろう。その指摘がなく、この判断だけを書けば、それは単なる感想にしか見えないわけだ。

そこで、彼が引っ張り出してきたところと言うのが、

「<「労働」は「贈与」である>

という主張は、その批判者には合理的なものとして受け取られていないのだろうか。この主張を合理的なものと受け止めれば、その合理性の中に、例えば現実とは重ならない部分があるとか、前提としている条件がおかしいとか、論理的な批判が出来る。しかし、これを合理的に受け取らないのであれば、そこには論理的な批判はない。あるのは、「合理的でないことを主張するやつは馬鹿だ」という蔑視があるだけだ。

もし、内田さんが、合理的でないことを主張していると思っているのなら、それは内田さんをあまりに見くびっていることになるだろうし、僕はむしろ、そのように内田さんが語っていることは非合理的なことだと批判する人間たちは合理性を理解するだけの水準にないのだとしか思えない。」


という文章になるわけだ。さて、ここのどこに「自分または内田氏に都合のよい解釈だけを持ってきて」という指摘をなるほどと思わせるところがあるのだろうか。彼によれば、

「まず与えられた命題を自明に真とし、それが真となるような根拠をかき集めるやり方です。」

ということになるらしい。彼が引用してくれた僕の文章の中で「与えられた命題」というのは何を指すのだろうか。それは、<「労働」は「贈与」である>と語られているものしかない。彼は、これを僕が「自明に真」としていると解釈しているらしい。これは、まったく都合のいい解釈だ。いったい、僕の文章をどのような文脈で読んだのだろうか。文脈などというものをまったく考えていないのではないだろうか。

内田さんが<「労働」は「贈与」である>と主張していると批判している者たちは、この命題を「端的に背理」と呼んで、「自明に偽」としている。これに反対するから、僕は「自明に真」としていると主張しているのだろうか。もしそう考えているなら、それは論理に対する無知を表明していることになる。

「自明に偽」であるということに反対するのは、それが偽である場合もあるし、真である場合もあって、条件をよく吟味しなければ判断出来ないだろうと主張することになるのである。「自明」には「偽」であるとは判断出来ないと、僕は主張しているのだ。

この命題を自分にとって都合良く「自明に偽」だと思っているから、都合良く、それを内田さんが主張していると思い込んでいれば、「自明に偽」だと思っている主張を語るやつなど馬鹿だとしか思えないだろう、と僕は推論しているのである。

この命題が「自明に偽」ではないと考えれば、これが「真」になる条件を考えることによって、この命題の合理的解釈が出てくるのだ。それが、ここのエントリーで語っている、この命題の「労働」は「奴隷労働」しか含まれていないという解釈だ。

「自明に偽」だという判断しかしなければ、そこで思考はストップしてしまう。内田さんは馬鹿なことを言っているだけだという判断で終わりだ。しかし、ここをもう一歩深く論理的に考察して合理的な理解を図るなら、この主張から、「すべての労働は奴隷労働だ」というようなことが導かれてくる。そうすれば、今度は、内田さんがこのような主張をしているのかどうかという考察に進んでいくことになる。

内田さんが単に馬鹿だという結論を出すのではなく、まともな批判をしたいのなら、せめてそれくらいの論理展開をしてくれというのが僕の希望だ。

「すべての労働は奴隷労働だ」という主張が導かれるとしたら、内田さんがそんなことを言うのは変だという考えも浮かんでくるだろう。そうしたら、内田さんの文章を誤読したのではないかという反省も生まれてくるのだ。ここで変だと思わなければ、やっぱり内田さんを見くびっているだけのことになるのだ。

このような論理展開が出来ず、内田さんがまともなことを語っていないと思っているだけなら、そういう批判をする者たちは、「合理性を理解するだけの水準にないのだとしか思えない」のだ。

ここでは、内田さんの批判者たちが二重に間違っていることを論じているのだ。一つは、内田さんが<「労働」は「贈与」である>と主張していると思い込んでいること。そしてもう一つは、内田さんが非論理的な主張をする人だと思い込んでいること。内田さんの論理を正しく理解していない人間が、内田さんの主張を論理的に批判など出来るはずがない。

「与えられた命題を自明に真とし、それが真となるような根拠をかき集める」と語っている言葉は、彼にとって都合のいい解釈をしているだけだ。論理というのは、自分にも返って来るというのをよく知った方がいい。僕は、与えられた命題を「自明に真」としていない。それは、彼の勝手な都合のいい解釈に過ぎない。

彼の説明のよりどころはここだけなので、あとはおまけのようなものだが、論理的な混乱だけ指摘しておこう。科学において重要なのは、仮説が「任意の」対象に対して成立するかどうかと言うことが最重要なことであって、反証可能性は科学の本質ではない。

反証出来ると言うことは、ある命題が真理だ(つまり任意の対象に対して成り立つ)と主張したのに、現実に成り立たない対象があったと言うことだ。つまり、その仮説は科学ではないということが確認出来たと言うことであって、科学であるということの証明とは無関係だ。いくら反証可能性を消していっても、いくらでもその可能性を考えられるのなら、それはいつまでも科学にはならないのである。「一つ上の「確からしさ」を得る」としても、それは確からしさが増した仮説になるだけで科学にはならないのだ。

科学について語るなら、もう少し科学について勉強して、論理的にもきちんと理解してから語った方がいい。

彼の証明に対する解釈は面白い。おそらく自分でもそう感じながら勉強してきたのだろう。「あとはそれが真になるように定理をつなぎ合わせれば「正解」が得られるのです」というのは、まさに彼の文章がそのような構造を持っているのだが、自分ではそれに気づいていないのかも知れない。

実際に証明で必要不可欠なものは、その命題がつなぎ合わせられるという判断をする、全体構造の把握の方なのである。全体構造が把握出来なくて、部分のつながりしか目に入らなければ、とんでもない命題を、共通部分があるからというだけでつなげてしまうような間違いを犯すだろう。単に同じ言葉が使われているからとか、そんな理由でつなげていくようになる。

しかし、証明の認識というのは「風が吹けば桶屋が儲かる」という話のようなものなのだ。全体構造としての「風が吹けば桶屋が儲かる」が把握されていて、その上で個々の自明だと思えるような命題のつながりが見えてきたとき、証明の全体が見えてくるのである。(このたとえ話から、僕が「風が吹けば桶屋が儲かる」という命題を真理だと主張しているなどと誤読しないように。これは、証明の構造を語るための比喩として取り上げただけなのだ。)

内田さんの主張の本質としての全体構造を把握しないで、「働かないことが労働になる」という命題を、言葉尻だけを捉えて批判するからまともな証明にならないのである。「働かないように見える若者たちが、実はそう見えるだけで、働かないと言う判断そのものが間違いではないのか」という全体の主張の構造を把握した上で、「働かないことが労働になる」ということを考えなければ、このことが証明の一部であるなどということが理解出来るはずがないのである。

彼はおそらく本物の数学を勉強する機会がなかったのだろう。本物の数学を知らなければ、論理に対する無理解も仕方がないといえる。

二流問題


二週間前に、マル激トークオンデマンドでは、神保哲生氏の小学校時代の同級生という『拒否出来ない日本』(文春新書)の著者の関岡英之さんをゲストに招いて議論をしていた。その議論の中で「二流問題」というものが提出された。

例えば竹中大臣は、学者が政治家として登場したと言うことで話題になったが、学者としてはアカデミズムの世界では二流という評価だったそうだ。だが、学者としては二流であっても、経済政策を担当する政治家になり、強大な権力を持つことになれば、その影響というものは計り知れないものになる。

本来ならば、一流の学者の方が正しい判断が出来、現実的にも影響力を持つべきだと考えられる。しかし、学問的な正しさと権力の大きさが比例しないため、必ずしも現実的な政策などでは正しい判断が選ばれない。むしろ、ある種の利権に奉仕するような判断が、学問的な装いを持って提出されて、それに詳しくない大衆は、権力の権威とマスコミの宣伝によって、その二流の判断が正しいと錯覚してしまう。

これがマル激で語られていた二流問題というものの姿ではないかと感じた。正しい判断がなぜ理解されないのか。また、一部の利権に奉仕するような判断が、なぜ大きな権力を握っていくのか。大衆はなぜそれにだまされてしまうのか。これらの疑問に対して考えることが二流問題を考えることになるのではないかと思う。

このヒントになるような文章が、宮台氏の「アンチ・リベラル的バックラッシュ現象の背景【追加】」という文章の中にあった。ここでは、バックラッシュ(揺り戻し・反動)と呼ばれる現象の中に、二流の学者が台頭して権力を握り、一流の学者を駆逐するという面を見ている。この現象の中に、二流問題で提出されている疑問の答が見えてくるような気がする。

このバックラッシュ現象の特徴を宮台氏の文章から拾ってみよう。

1)「権威主義者には弱者が多い。」

2)「排外的愛国主義にコミットするのは、日本に限らず、低所得ないし低学歴層に偏ります。」(「要は『諸君』『正論』な言説の享受者は、リベラルな論壇誌のそれより、低所得か低学歴だということです。」)

3)「丸山の戦後啓蒙がなにゆえ今日この程度の影響力に甘んじるのか」は「丸山がインテリの頂点だったために、亜インテリ(竹内氏は疑似インテリと表記しますが)の妬みを買ったから、となります。」(教育社会学者の竹内洋氏の著書『丸山眞男の時代』(中公新書)による)

4)「丸山眞男によれば、亜インテリこそが諸悪の根源です。日本的近代の齟齬は、すべて亜インテリに起因すると言うのです。」(「亜インテリとは、論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、ないしアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する者、ということになります。この者たちは、東大法学部教授を頂点とするアカデミック・ハイラーキーの中で、絶えず「煮え湯を飲まされる」存在です。」)

5)「文化資本を独占する知的階層の頂点は、どこの国でもリベラルです。」
  「だからこそ、ウダツの上がらぬ知的階層の底辺は、横にズレて政治権力や経済権力と手を結ぼうとするというわけです。」

6)「これが、大正・昭和のモダニズムを凋落させた、国士館大学教授・蓑田胸喜的なルサンチマンだというのが丸山の分析です。竹内氏は露骨に言いませんが、読めば分かるように同じ図式を丸山自身に適用する。即ち、丸山の影響力を台無しにさせたのは、『諸君』『正論』や「新しい歴史教科書をつくる会」に集うような三流学者どものルサンチマンだと言うのです。アカデミズムで三流以下の扱いの藤岡信勝とか八木秀次などです。」

7)「要は、文化資本から見放された田吾作たちが、代替的な地位獲得を目指して政治権力者や経済権力者と結託し、リベラル・バッシングによってアカデミック・ハイアラーキーの頂点を叩くという図式です。」


権威主義者に弱者が多いというのは次のように推論出来る。弱者というのは、自分のよって立つ基盤を自分自身に持てないから弱者だと言える。だから、その基盤を自分の外にある権威に頼るだろうという推測が出来る。自分の中に、自尊心の基盤を持てれば強者になるだろう。そして、そのような強者なら、権威に頼らずに自らの判断を信じて行動することが出来る。結果的に、権威に頼る人間は弱者が多くなるだろう。

2)では、その弱者を具体的に「低所得ないし低学歴層」と書いている。これは、「私の在職する大学で博士号を取得した田辺俊介君の博士論文『ナショナル・アイデンティティの概念構造の国際比較』(2005)が、ISSP(国際社会調査プログラム)の1995年データを統計解析しています」と言うことから結論されている。つまり、これは推論の結果ではなく、統計データという事実から導かれた結論と言うことになる。

権威主義者が何故に「権威主義」と呼ばれるかといえば、本当の学者の実力を正しく評価して、その実力に「権威」を感じているのではなく、表向きの形式、つまり肩書きだとか権力だとかに「権威」を感じて、それ故に正しいと錯覚するので「権威主義」と呼ばれる。そうすると、このような「権威主義者」が、本物の一流の学者に対しては支持をするどころか、むしろルサンチマンを感じて恨みを抱くということも考えられる。これは推論の結果そう考えられる。

丸山真男によれば、このような権威主義的二流学者は「亜インテリ」と呼んでいる。このような存在が、一流の学者に対して抱く恨みは、一流の学者は、本物の権威によってニセモノの権威である彼らのよりどころを否定するような存在になるからだろうと思う。また、宮台氏が指摘するように、本物の学問的な実績を上げることが出来ないために、「横にズレて政治権力や経済権力と手を結ぼうとする」のだろう。そして彼らが権力を握ることに成功することによって、彼らの方が現実的な力を得ることにつながるのだろうと思う。

社会には、経済にしろ政治にしろ大きな利害の違いが存在する。その利害は、学問的に正しいことが実現されるという方向に行くとは限らない。企業が公害を撒き散らせば、学問的には企業の責任を問う方向で考えることが正しいだろう。しかし、利害関係という観点から言えば、企業に責任がないことを証明する学問の方が企業の側にとってはありがたいだろう。

学問は常に利害が絡んだ権力に利用される可能性がある。イデオロギー性を持っていると言っていいだろうか。しかし、一流の学者であれば、イデオロギーに奉仕するのではなく、学問としての正しさをあくまでも追求するだろう。一流からはずれる、同じことをしていたらうだつが上がらない二流の学者は、権力におもねることによって権力のおこぼれに預かり、実質的に権力の一部を獲得するという方向に行く。これは、推論としてこのような方向に行くことの蓋然性がかなりあるものと考えられる。

二流問題において、一流ではなく、むしろ二流の学者こそが権力の中枢に位置してしまうと言うことは、権力というものが偏った利害を代表していることに原因しているのではないかと思う。利害が偏っているので、学問的に正しい答を出されたのでは、かえって自分の利権を否定するようなことになってしまう。だから、たとえ間違っていようとも自分の利権を守ってくれるような、二流の学者の判断こそが大事にされるというわけだ。

これは、統治権力の側にとって都合のいい判断を出してくれる学者として、例えば環境破壊に対する批判があったときに、環境に対する政府の判断を強化する立場を見せたりする人がいたり、精神鑑定において、裁判所にとって都合のいい鑑定を出してくれる精神医学者がいたりすることを見ると、具体的にこれらの推論のあらわれを見ることが出来て、推論の正しさを感じるものだ。

二流の学者の方が大きな権力を握って影響力を拡大するというのは、本来は大衆にとっては不利益になるはずだ。それは権力にとって都合がいいのであって、大衆にとって都合がいい状態ではない。両方にとって都合がいいのであれば、何も二流の学者を使ってごまかす必要はないのだから。しかし、実際には、この二流の学者の影響力を排除する方向で大衆的な動きが起こることはない。実際には不利益であるのに、大衆はなぜそのように感じないのだろうか。

宮台氏は、


「例えば、「第三の道」的な自立支援が一般的になった今日、自立努力や参加意欲を示さないまま行政的に支援されるように見える人々に対し、2ちゃんねるなどの場で「テメエが弱者かよ」と噴き上がるケースが目立ちます。そういう大衆的な心性が、「第三の道」を通り越して、ネオリベ的な再配分否定図式を翼賛しています。噴き上がる連中には弱者が多いですから、自分の首を絞めていることになります。実に皮肉な事態です。」


と語っていて、不利益を被る弱者が、かえって弱者を叩き、利権のために権力を擁護する二流の学者を支持する方向に行く皮肉を指摘している。二流の学者が権力にすり寄ったとしても、大衆が正しく判断して、自分たちの不利益になることに反対すれば、民主主義国家であればそれなりに、権力の自由勝手にさせるということはなくなるだろう。しかし、今の日本の状況を見ていると、郵政民営化の問題にしても、ほとんどが二流の学者の言説だけがマスコミに載って、一流の学者の言葉はほとんど大衆に知られずに、二流の判断が何の疑問も提出されずにどんどん通っているという感じがする。

二流の学者が権力の中枢に行ってしまうという問題は、大衆の側が一流と二流の区別がつけられないということにも原因があるような気がする。これは、マスコミの宣伝だけが原因だろうか。確かに大量宣伝のためにだまされると言うことはあるだろうが、たとえ宣伝がたくさんあっても、生活感覚に大きく反するような言説なら、疑問を持つ人が増えていく可能性があるだろうと思う。大量宣伝に加えて、生活感覚では、その間違いが発見出来ないような巧妙な仕掛けがあるようにも見える。

郵政民営化法案の時は、それがいかにも構造改革をして、今まで欠点としてあげられていた部分が克服されてバラ色の未来が訪れるような錯覚がばらまかれていた。しかし、実際のこの法案は、アメリカが、日本の国家財産の一つである郵便貯金と簡易保険を合法的にむしり取ることに荷担するような法律だったと、今ではそのように理解する人が増えてきている。この法案が議論されていたときに、このような理解をする人が多ければ、選挙での結果も変わったものになっていただろう。

人々が二流の学者の言うことの方をむしろ信じてしまうのは、対象の難しさというものがあるような感じがする。難しい対象を理解するには、一流の学者がよく考えた過程をたどることが出来なければならないのだが、それはとても難しくて、むしろ二流の学者の短絡的思考の方が理解しやすいので、そちらの方へ流れやすいと言うことがあるのではないかと思う。

これは、究極的には暗記学習に偏った日本の教育に問題があるように僕は感じているが、難しいことをよく考えるという習慣が、どうも日本人にはないのではないかと思う。そのために、一流の学者と二流の学者も区別出来ず、単純で気持ちのいい結果を語る二流の学者の方へ支持が向いていってしまうのではないだろうか。

一流の学者と二流の学者をどこで区別するか。その問題を次は考えてみたいと思う。