江川達也氏の言説は一流だ

江川達也氏の言説は一流か」と言うことで、昨日は考えてみたが、考えれば考えるほど、僕には一流だと思えるようになった。そこで、昨日は断定出来なかったが、今日は断定的に「だ」と言い切ることにした。

手塚治虫さんについて考察したことを考えようと思ったのだが、それ以上に鋭さを感じる言説が、日本の教育とそれを支える社会環境に関するものだった。教師として教育現場に立ったということからのものが基礎にあるのだと思うが、その経験が短いものでありながら、実に鋭く本質を捉えていると僕は感じる。引用して考えてみよう。

「戦後の教育は、合目的な形で行われてこなかったのです。ある目標があって、その目標のためにこういう勉強をやると言うことではない。実際の生活でこういうことが役立つから、今こういう勉強をしていますといった教育を、戦後はやらなくなってしまった。目標もはっきりしないまま、意味のないことを暗記しなさい、ということが戦後の教育です。」

これは、戦後教育に対する正しい批判だと僕は思う。戦後教育が、民主主義のもとに行われたものだと言うことを擁護したい人は、江川さんのこの断定には感情的に反発したくなるかも知れない。しかし、理念として何をもっていたかと言うことと、実際に行われたこととは違うことなのである。戦後教育は、理念としては個人を大切にした教育を打ち出そうとしていたが、実際には、江川さんが指摘するように、「目標もはっきりしないまま、意味のないことを暗記しなさい」ということをしてきたと言うことが「事実」ではないかと思う。

それに一貫して反対してきたのが、遠山啓さんの数学教育協議会であり、板倉聖宣さんの仮説実験授業研究会だった。板倉さんは、意味のあることなら暗記も楽しいと言うことを発見して、必ずしも暗記を否定していない。むしろ役に立つことの覚えやすい方法を開発することで、勉強を楽しくしようということを考えていた。江川さんが指摘するように、意味のないことの丸暗記では、勉強が少しも楽しくならないことが問題だと指摘していた。

このあたりの指摘は、感覚が鋭い人なら、論理ではなく直感で捉えることが出来る。しかし、江川さんの言説が優れているのは、この指摘を論理的に納得出来るように説明出来るところだ。上の文章に続けて、江川さんは次のように語っている。

「その背景には戦後の冷戦構造や、日本が戦前の否定から出発せざるを得なかったという、歴史的な事情があります。戦前のことをある目的を持って研究していくと、必ずしも戦前は否定すべきではないことが明らかになってしまう。それは、戦前を否定したい人たちにとっては都合が悪い。社会主義においても同じで、突き詰めて世の中のことを考えていけば、日本的な社会主義が矛盾をはらんでいることに突き当たる。その矛盾を合目的に解決しようとすると、その社会体制の批判になってしまう。だから戦後の教育は、否応なく無意味なことを暗記させる方向へ向かったんです。
 権力者や管理者にとっては、いろいろなことが分かられては困るわけです。目的を持った知識というものは、非常に嫌悪されます。ある目的のために世の中を分かろうとすることは、ある程度まで行くと周りから総スカンを食らいます。マトリックスが管理する社会の中で、「これはマトリックスだ」と分かった人間は、そこから追いやられてしまうわけです。」

なぜ暗記教育に偏ってしまうかと言えば、本質を勉強されると困るからであるというわけだ。つまり、暗記教育をしておけば、本質には目を向けない人間に育つので、本質を隠しておきたい人間にとっては都合がいいわけだ。これは、権力の側も、反権力の側にも、それなりの利益があったので、日本社会が全体としてそのような方向へ行ったのではないかと考えられる。

江川さんが指摘するように、反権力の側は戦前を全否定したいので、戦前を本質的に理解されると困ると言うことがあり、権力の側は、日本的な社会主義という中央集権的再配分の本質を理解されると困ると言うことがあったと思う。三浦つとむさんは、科学の真理性は、たとえ部分的に革新側に不利で、権力側に有利な結論が出ようとも、総体としてみれば、真理を確立することが人民の利益になるのだと主張していたが、主流派は、部分的な間違いでさえも認めたくないと言う人が多かったのではないかと思う。

江川さんは、「戦前のことをある目的を持って研究していくと、必ずしも戦前は否定すべきではないことが明らかになってしまう」と語っているが、これは仮説を持って予想を立て、その予想を問いかけて現実を理解していくという仮説実験の論理に通じるものがある。今まで見過ごされていたことの中に、仮説を検証するような「事実」が見つかるというのは、仮説と予想を持って問いかけると言うことがない限り生じてこない。

「ある目的のために世の中を分かろうとすることは、ある程度まで行くと周りから総スカンを食らいます」という指摘も、僕はその通りだなと思う。本質的に優れた本がベストセラーになりにくい理由もここにあると思う。それは、権力の側が喜ばないと言うことで宣伝されないと言うこともあるが、それ以上に、無意味な暗記教育で育てられた人々が、有意味で難しい内容を敬遠すると言うことがあるのだろうと思う。

そのような本質的なものを突きつけられると、無意味な暗記で評価されていた自分が、ある意味では無意味な存在だと言うことを否応なく突きつけられるのではないかと思う。感情的な反発によってアンポピュラーになる可能性がある。

話はちょっと展開するが、民主党党首に選ばれた小沢さんに対して、僕が一流だと思っている人たちは、総じて小沢さんを評価している。しかし、大衆的な人気という点では小沢さんはやや弱いと思われているようだ。それは、小沢さんが語る見識というものが、小泉さんと違って難しいものであり、世の中の矛盾を反映したものになっているからだ。気分的にスカッとして舞い上がれるような、小泉さん的な言説が小沢さんにはない。

小沢さんの方が、日本社会の全体を、歴史的にも深く把握していると評価されているので、識者と思われる人から高く評価されているのだと思う。果たして、大衆的にも小沢さんが支持されるような状況が生まれるだろうか。小沢さんの低俗な部分がマスコミに受けて支持されるようになると、目的のない無意味性から脱却することが出来ないだろうが、小沢さんの難しい部分が支持されるようなら、日本の民主主義にも明るい展望が感じられるかも知れない。果たしてどうなるだろうか。

マトリックスというのは、映画の「マトリックス」で描かれたような、予定調和的な、あらかじめ作られた世界というような意味だろうと思う。マトリックスの中で生きていて、その中でベタに世界を受け取っている人間は、マトリックスそのものを見ることが出来ない。マトリックスを超えて、マトリックスを外から眺める視点を持たないと、マトリックスの批判は出来ないのだ。これは、科学が、見かけの世界という現象ではない、そのままでは見えない本質を追究すると言うことに通じる。

マトリックスの外に出られる人間が少ないうちは、予定された反応として、二流の多数派的言説がポピュラーになり、一流の少数派は、予定外として排除されるという、江川さんの指摘は、マトリックスという概念を使うと論理的に良く理解出来る。このマトリックスという言葉を使った次の江川さんの言葉も、僕はまったく共感してしまう。

「逆にマトリックス世界の中では、マトリックス世界の外の話を理解出来ない人の方が評価されます。無駄で無意味なことを覚えているやつほど評価されるわけです。
 大学でもどこでも、理路整然としたきちんとした意見は評価されない社会になっています。大学入試なんかでも、頭の悪いやつほど評価されるようになっている。オタクのように、社会の中でより無意味なことを山ほど知っているやつが評価される。そういったことを学習した人たちは、よりまたどうでもいい知識を山ほど詰め込もうとする。人間は無駄な知識をたくさん覚えることによって快感を覚える生き物だから、ますます無駄な知識を膨大に集めるようになる。しかもそれは危険性がない。有用な知恵を得ると生きにくくなるけれど、無駄な知識を得てそれをしゃべると、みんなが「へえ、へえ!」とかいって感心する。オタク的なものが評価の対象になって、無駄な知識をたくさん知っているやつほど、おいしい思いをするようになるんです。
 本来の教育とは、ある種の目的を持って、そのためにどうするかを教えなければいけないわけです。そういう教育を受けている人は、オタク的なものに対しては余り反応しないと思います。でも、そういうものが評価されたためしはほとんど無い。」

でも、これは、学校優等生に対する悪口にしか聞こえないかも知れない。このような言説を、江川さんが、学校優等生になれなかった劣等感と結びつけて心理学的に解釈する人もいるようだが、それはまったく的はずれだと思う。このような言説の持ち主が、学校優等生に劣等感を抱くということの方が僕にはあり得ないことのように感じる。学校優等生に対してまったく価値を感じていないのだから。

このような日本社会の特性に対して、「幼児性」と呼ぶ人もいるようだが、これには江川さんは反対している。次のように語っている。

「日本での社会性、マトリックス世界での社会性はあるけれど、その外側の社会性がないということです。日本では「正論」が社会性を持たない。「正論」を言うと、日本では社会性がない人だと言うことになる。白いものを白いと言うと、「君は社会性がない。社長だけではなくて周りの人がみんな黒と言っているから黒だよ」みたいな、裸の王様的な世界なのではないかと思います。幼児性とくくってしまうと困るのは、日本の歴史的なものにも幼児性っぽいところはあるし、戦後ならではの幼児性もある。幼児性とはまた別の問題ですね。」

「幼児性」というのは、日本社会での大人が、西洋的な観点からは「幼児性」のある大人になっているので、その言葉だけでは正確さを欠くと言うことではないかと思う。それを、イメージとして語るのではなく、正確に現象を記述するには、江川さんが言うように、「外側の社会性がない」という表現をした方が正確ではないかと思う。このあたりの論理的なとらえ方も見事なものだと思う。

江川さんの言説には、僕は高い一流性を感じる。それだけに誤解されることも多いのだろうなと思う。しかし、単純に理解されないと言うことに、一流性の特徴もあるのではないかとも思う。