「反証可能性」という言葉について

反証可能性」という言葉を使って科学を語る言説をよく見かけるのだが、たいていはそれが的はずれのように感じている。科学に対するこのような的はずれの言説が蔓延しているのは、「反証可能性」という言葉自体に原因があるのか、それともこの言葉の理解に原因があるのか、どちらだろうかと思う。

カール・ポパーが語ったと言われるこの言葉を、ポパー自身はどのように説明しているのだろうと思った。それを見れば、的はずれの言説が、その言葉を誤解しているのか、それともポパー自身の考え方の中に間違いがあるかどちらかが分かるだろうと思う。ポパーのように多くの人から評価されている人間の言説を否定するのはあまりにも無謀だから、おそらく多くの人はポパーの言説を誤解しているのだろうと思う。

たまたま図書館で見つけた『実在論と科学の目的(上)』(岩波書店)という本の序章に「反証可能性」についてが書かれていた。この文章を基に、ポパーが何を言いたかったのかを考えてみよう。そして、それがいかに誤解される可能性があるかを考察してみたい。まずは冒頭の次の文章を考えてみよう。

「これらの用語は、境界設定問題についての私の解決案との関連で導入された。境界設定問題とは、経験科学(理論、仮説)に属する言明を、他の言明、特に疑似科学的、前科学的な言明、形而上学的な言明から、さらにはまた数学的論理学的言明からも区別する基準を提出するという問題である。この問題は、これよりも遙かに重要な真理の問題とは区別すべきである。つまり、偽であることが明らかになった理論−−例えば、レイリー=ジーンズやウィーンによる放射公式、あるいは1913年におけるボーアの原子モデル−−でも、経験的で科学的な仮説であるという性格を保持することが出来るのである。」

重要なことは、「反証可能性」という言葉は、「境界設定問題」というものに関連して提出されていると言うことだ。この「境界」というのは、ある言説を集合として考えたとき、科学の言説の集合の「境界」ではないのである。

もし科学の言説の「境界」であるなら、それが明確になれば、科学であることが決定出来ると言うことになる。これは、僕の(と言うよりは板倉さんから学んだ)考えでは、仮説実験の論理がその「境界」を確定する。仮説実験の論理を経て、その任意性が確認出来た言説は、仮説から科学へと転化する。科学としての真理性を獲得するのである。

しかし、ポパーが語る「反証可能性」は、そのことが確かめられたからと言って、直ちに科学であることが確認出来るものではない。と言うよりは、科学であることの確認とはまったく関係がない「境界」を論じていると受け取らなければならない。

この「境界」は、明らかに科学ではないものを区別する「境界」なのだ。明らかに科学でないものを、その「境界」外に追いやって排除出来れば、仮説実験の論理による実験の工夫をする範囲が狭まることになる。無駄な努力をしなくて済むというわけだ。科学になるかも知れない、実証的な仮説だけを考えることが出来る。そういう意味では役に立つ考え方だろうと思う。

ここで語られている「科学」は、現実を対象にした「経験科学」に限定されている。だから「数学的論理学」というものは、科学ではないものとして「境界」の外に追いやられている。これは、現実が対象ではなく、抽象的に設定された観念的な世界を対象にしている。だから、たとえ真理であっても、「科学」からは排除されることになる。

疑似科学」「前科学」と呼ばれる言説は、科学的な真理性が証明出来ない言説である。科学的な真理性が証明出来る「仮説」は、逆に言えば、真理でないことも証明出来る可能性を持っている。科学的な真理性は、条件付きの限界がある真理性だから、その限界を超えた対象に対して実験をすれば、それが真理でないことが確かめられるからである。

疑似科学」「前科学」では、限界のある真理という証明が出来ない。限界を設定するためには、明確な、実験前の定義というものが必要なのだが、「疑似科学」や「前科学」では、実験後の解釈によって、限界があることを否定してしまうからだ。これらは、科学的な真理性を証明することが出来ない。だから科学になり得ないのである。

また、数学的論理学は、限界のない真理になるので、これも科学的な真理性を持ち得ない。数学的対象は、その全体を観念的に設定してすべてを決められるので、そのすべてに対して成立してしまい、成立しない範囲があるという限界がない。一度確かめられた真理は、永久に絶対的な真理となる。だから、これも「経験科学」の言説ではないと言うことになる。

反証可能性」というのは、このように、あらかじめ科学でないと明確に分かるものを排除しておこうとする発想だ。しかし、「反証可能性」という言葉では、これはどのようにすればいいのかはよく分からない。これは、性格の違う「数学的論理学」と「疑似科学」「前科学」を一緒にして発想しようとするので、具体的な方法が出てこないのだと思われる。

具体的には、「数学的論理学」の真理は、トートロジーを基本にしている。言葉の上でだけ真理であることが確かめられるものは、「数学的論理学」の言説なのである。だから、そういうものは科学にならないと結論することが出来る。これに「反証可能性」がないというのは、トートロジーは真理であるから、形式論理の中では絶対に誤謬にならないからだ。どこまでも真理なのであるから、反証など出来ないのである。逆に言えば、矛盾した命題は、絶対的な偽になるから、これは反証することしかできない。証明は出来ないのだ。

疑似科学」や「前科学」は、科学的な真理が決定出来ないという言説であるから、それの「反証可能性」というものは、反証だと思われるものをすべて解釈で逃げるというものだと思われる。解釈の余地を残すような曖昧さが、この「疑似科学」や「前科学」というものに対する反証可能性を語ることになる。

逆に言えば、解釈の余地を残さないように厳密な定義を、実験前に行っておけば、これらの「疑似科学」や「前科学」は、本当の科学になるか間違った言明になるかのどちらかだろうと思う。

ポパーは、「すべてのスワンは白い」という言明において、黒いスワンが見つかることが、この言明の「反証可能性」だということを書いている。この言明には「反証可能性」があると判断しているわけだ。これは、反証可能性があるが、それだけでこれが科学だと主張する人はいないだろう。この言説のつまらなさが、「反証可能性」という言葉で科学を語ることの限界を物語っている。

ポパーは、黒いスワンが見つかったときに、「その黒いスワンだと言われるものはスワンではない」という反論を出されると、反証可能性がなくなるとも書いている。「スワンにとって白いと言うことが本質であって、黒いものはスワンではない」という言説がここに加わることを考えている。

これは、なぜ反証可能性がなくなるかといえば、この言明が同語反復というトートロジーになって、形式論理的・数学論理的なものになるからだ。それは次のような書き換えを行うと分かる。

「すべての<スワン>は白い」
   ↓
「すべての<白いという本質的性質を持っている鳥>は白い」
   ↓
「本質的に白いスワンは、すべて白い」

あからさまにこう書くと、この言明がいかに内容のないものであるかが分かるだろう。もし、「すべてのスワンは白い」という言明が、仮説実験の論理にかけられるようにするのであれば、「スワン」という言葉の定義を、結果的に解釈して逃げられるようなものにするのではなく、その色とは無関係に明確に定義しなければならないだろう。色と無関係に、誰が判断しても同じ判断になるように定義出来れば、任意のスワンを見つけてきて色を確認するという実験が出来る。そして、その実験を経て正しいことが確認出来れば、これは科学的真理の一つになる可能性もあるわけだ。

反証可能性」というものを考えて、ある種の言説を、科学の対象から排除するという発想も一つの発想としては成り立つだろうが、僕はそのような発想は必要としない。仮説実験の論理さえあれば、その言説が科学であるか無いかは判断出来るからだ。

この「反証可能性」の言葉で語った的はずれの科学論としては、「反証可能性」を積み上げて、反証する実験を積み重ねていけば、その言明の科学としての信頼性が高まると論じていたものがあった。「反証可能性」を確かめる実験は、いくら積み上げても科学にはならないのだ。それだけであれば、それはどこまでも仮説にとどまるので、科学としての信頼性はまったく高まらない。

反証可能性」を確かめる実験は、その言説が、科学的・実証的な言説であって、反証されるのであれば、その言説が間違っていることが証明されることになるだけである。ただ、その間違いが、言説そのものの間違いなのか、それが成立する対象の限界を広げたためによる間違いなのかは、慎重に決定しなければならないだろう。

限界を超えているときは、ある限界内では成立すると結論する方が正しい。言説すべてを否定するべきではない。その間違いを確認するのではなく、正しいこと、すなわち言説が科学という真理であることを確かめられるのは、仮説実験の論理に則った実験だけなのである。

ポパーは、形而上学的な言説も、科学からは除いている。これは、「反証可能性」と言うことを考察する必要もないくらい明らかなことだとは思うのだが、蛇足ながら付け加えておくと、これは対象の範囲が広すぎて、仮説実験の論理の対象にならないことが本質的に重要だと僕は思う。形而上学は、対象となる世界の全体をさらに高い視点から見る考え方だ。すべてを対象にするのだが、このすべては「可能無限」ではなく、認識の限界を超える「実無限」のすべてになってしまう。

「可能無限」ならば、時間的には終わりがないが、繰り返しによってすべてを確認出来るという可能性を語ることが出来る。しかし、いっぺんに把握することの出来ない「実無限」を、把握したことを前提にして考える形而上学では、証明出来ないことは何もなくなってしまうので、反証の可能性はないのだ。神の完全性を前提にすれば、神について証明出来ないことはなくなってしまう。これが、形而上学的な「反証可能性」の正体だと思う。