カントの一流性

僕が初めてカントの名前に出会ったのは、三浦つとむさんの「物自体」に関する批判の文章の中でだった。それがどこに書かれていたのか探したのだが見つからなかった。記憶を頼りに考えてみると、それは、科学的認識に関わる文脈だったように思う。

「物自体」というのは、

「「感覚によって経験されたもの以外は、何も知ることはできない」というヒュームの主張を受けて、カントは「経験を生み出す何か」「物自体」は前提されなければならないが、そうした「物自体」は経験することができない、と考えた。物自体は認識できず、存在するにあたって、我々の主観に依存しない。因果律に従うこともない。」
「物自体 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」

と説明されている。

「物自体」は認識することが出来ないので、科学も、客観的に存在する物質の間に成立する法則ではなくなる。それは、認識出来ない「物自体」に、人間の方で法則性を付与していることになる。その法則性は、因果律的な法則性ではなく、単に時間的な前後の関係を見ているだけだと言うことになる。

このような考え方に対して、三浦さんの批判は、「物自体」というのは、抽象によって実在から切り離された属性であり、観念的な存在であるというものだった。「物自体」は存在という属性だけを切り離して、存在だけを属性として持っているものになる。だから、それは他に何の属性も持っていないので、人間の側がいろいろと属性を与えないと、現実の存在にならなくなる。

しかし、これは抽象的にそう「空想」することが出来ると言うだけのことであって、現実に「物自体」だけを切り離すことは出来ない。「物自体」というのは空想の産物なのだ。だから、それが存在しないことは何も不思議なことではない。実際には現実のものというのは、それが人の手によって作り出されたり、役に立てられたりする「実践」と関わって、その実在も証明されると三浦さんは考えた。「実践」が「物自体」という空想を粉砕するのだと語っていた。

三浦さんの『弁証法・いかに学ぶべきか』(季節社)には、次のエンゲルスの文章が引用されている。

「植物や動物の中に生じる科学的諸物質も、有機化学がこれらの物質を次から次にと説明し始めるまでは、かかる『物自体』たるにとどまっていた。それが有機化学によって説明されるにいたって、この『物自体』は我々に対する物となった。例えば、あかね草の色素アリザリンのごときがそうである。これを我々はもはや今では野原にあかね草の根の中に生ずるままにしてはおかないで、コールタールからずっと安価にかつ簡単に作り出している。コペルニクスの太陽系は、300年にわたって100人、1000人、10000人のうち疑う者はただ一人という確かな仮説であった。しかしやはり一つの仮説に違いなかった。ところで、ルブリエがこのコペルニクスの体系によって与えられたデータから、ある一つの未知の遊星が必ず存在せねばならぬと言うことを算出したばかりでなく、この遊星が天体の中で占めねばならない位置をも算出したときに、そしてさらに実際にガルレがこの遊星を発見したときに、ここにコペルニクスの体系は証明されたのであった。」(『フォイエルバッハ論』)

ここで語っているのは、その対象が完全に分析されて、属性のすべてが知られてしまえば、「物自体」として残る部分は現実にはなくなってしまうと言うことである。まだ知られていない部分があるときに、その知られていない部分は、存在していると言うことしか分からないので、「物自体」という抽象が出来ると言うことなのだ。

「物自体」というのは抽象的な対象なので、現実に存在していないことから、何かが結論出来ることはない。「物自体」の存在が確認出来ないからと言って、科学の真理性が失われるのではないのである。三浦さんの批判によって、僕は、カントの「物自体」についてはこれ以上知る必要がないと思って、カントについてはそれ以上関心を持たなかった。

しかし、カントが哲学史上の巨人であると言うことは知っていたので、そのような巨人が、このように簡単に乗り越えられてしまっていいものだろうかという疑問は残っていた。時代的な制約があるから、乗り越えるのが簡単なのだという思いはあった。しかし、カントは巨人である以上一流であることは間違いないと思ってもいた。だが、その一流性については分からなかったというのが正直な気持ちだった。

それが、『カント入門』(石川文康・著、ちくま新書)の次の文章で、カントに関する認識が変わったのを感じた。

「要するにカントは、経験世界に適用される限りでの因果律に関しては、また少なくともその有用性に関してはヒュームは何ら疑いを抱いていなかった、と述べているのである。重要なのは、ヒュームにとっては因果律が「一切の経験に関わりない」テーマ、すなわち形而上学的テーマに適用出来るかどうかと言うことが問題であり、彼は根本的にそのことに関して疑いを抱いていた、とカントが見ていることである。」

カントは、現実存在の属性を客観的に受け取る、経験世界での因果律に対しては疑いを持っていなかったのだ。つまり、三浦さんやエンゲルスが批判した、実践によって粉砕されるような「物自体」についてカントが語ったのではないのだ。三浦さんやエンゲルスが批判した「物自体」は、カントを理解し損なった後世の人間の勘違いだったのではないか。そう思うようになった。

石川さんは、カントの次の文章を引用して、上のような解釈の根拠としている。


「ヒュームの問題は、原因の概念が正しいかどうか、有用であるかどうか、また自然認識の全体に関して不可欠であるかどうかにあったのではない。実際、ヒュームといえどこれらのことを未だかつて疑ったことはないのである。そうではなくて彼の問題は、……この概念がおよそ一切の経験に関わりない内的真理を含み、従ってその使用は経験の対象だけに限定されることなく、さらにいっそう広い範囲に及ぶのかどうかと言うことにある。」(『プロレゴーメナ』、序文)


カントは、経験世界の対象に対しては、因果律をたどることが出来ることを否定していない。科学の可能性を否定してはいないのだ。むしろ、それを無制限に広げていくとどうなるかと言うことに疑問を呈しているのだと思う。言い換えれば、現実存在ではなく、観念的に設定した抽象的存在に対しも、因果律を適用すれば、それは論理の逸脱という理性の間違いを導くのではないかと考えているような気がする。

これは、三浦さんやエンゲルスと同じことを言っているのではないか。そういえば、三浦さんは、「カント的」とか「カント主義」というような文脈でこのことを語っていたような気がする。カントそのものを批判した文脈ではなかったような気がする。

批判されるべきは、カントを間違えて理解した人間の言説だったのではないだろうか。カント自身は、もっと深い真理を捉えていた一流の言説を語っていたのではなかったか。そう感じるようになった。

カントは理性批判をしたと語られている。その理性批判は、究極の存在にまで思考を及ばせると、その理性が間違いに陥るのではないかという批判だった。現実存在にとどまる限りでは正しい論理を進めることが出来る理性が、現実を超えたものに対しては間違える可能性がある。これは論理的に極めて真っ当な発想だ。しかも、これを深く考えることはたいへん難しい問題だ。

論理も自分自身に言及するようなことをするとさまざまのパラドックスを生む。対象を越えた思考というのは、常に判断に普通でないものが入り込む。ゲーデル不完全性定理なども、このような発想から導かれるものではないだろうか。カントが考えたことは、実に深い真理に関わるものだったのだ。これを理解することはたいへん難しいだろう。そして、このようなことを語ったカントは、やはり一流だと思う。

カントは、「時間・空間が客観的なものではなく、主観の形式である」とも語っている。これなども、「時間・空間」を、現実に存在している対象だと思うと、哲学者の戯言だとしか思えない。しかし、この「時間・空間」が、すべてを包含する世界という全体におけるものだとしたら、つまり究極の存在としての「時間・空間」だとしたら、カントが語る「主観の形式である」と言うことが真理であると僕は思う。

カントは、難しいことの難しさを失わずに記述をしたのだろうと思う。だから、その難しさを理解出来なかった後世の人間はカントを誤解したと思う。カントを誤解せず正しく理解出来れば、その一流性を感じることが出来るだろう。カントは、その一流性を理解してきた人々に語り継がれることによって、哲学史に巨人としての地位を築いているのだろうと思う。カントの一流性を伝えてくれた石川文康さんも、一流の人だなと僕は思う。