男の闘争本能について

お昼をよく食べに行く近所のそば屋にマンガがいくつか置いてある。僕は子どもの頃からマンガをよく読んでいたので、料理が出てくる間にそれをよく読むのだが、ヤクザを主人公にしたマンガに面白さを感じて読むことが多い。僕はヤクザとはまったく関係がないし、ヤクザになりたいとも思わないのだが、マンガに描かれたヤクザはかなり魅力的だと思う。

現実のヤクザは暴力的な犯罪集団であり憧れの対象にはならないのだが、マンガや映画に描かれたヤクザは、男にとっては単純明快な純真さのあらわれとして魅力的だ。自分の信念に殉じるような生き方がその魅力の根底にあるのだろうか。子どもの頃にプロレスに引きつけられたことを考えると、男にとって戦うことが本能的な欲求としてあるのかもしれない思ったりする。

マンガでは、主人公の敵役として、頭はいいが小ずるい私利私欲を求める悪人というのが登場する。同じヤクザであることもあるし、外見上はまともな社会人という姿として登場することもある。この悪人の理不尽な行為に対して、暴力的な抵抗をして立ち上がるのが主人公のヤクザになる。最後は悪人どもを蹴散らして、主人公の信念に基づく秩序を回復して真っ当な道を確立することに男は拍手喝采する。

戦いに勝利することによって価値あるものを守るというのは、ある意味では男の美学ということになるだろう。男にとっては戦いそのものが快感を与える要素を持っている。これは男の感覚にとってはどうしようもない本能的なものを感じるのだが、それがもたらす弊害もあると思う。その時に、この本能的感覚そのものを批判しても弊害を防ぐことは難しいのではないかとも思う。むしろ弊害をもたらすような社会構造の方こそ深く理解しなければならないのではないかと感じる。

強い信念を持つヤクザに惹かれる心情というのは男にとってはかなり強いものだというのを感じる。この心情が右翼的なものに通じるとしたら、男にとっては右翼的な資質の方が自然に芽生えるのではないかとも感じるくらいだ。暴力は否定されなければならない害悪を持っているが、時にはその暴力によってより悪い悪を排除しなければならない場合がある、ということは男にとってはけっこう深刻に迫ってくる考えだ。これは自衛のための戦力に通じる考えであり、大切なものを守るために命を捧げるというのは、男にとっては、誰かに押しつけられて持つ考えというよりも、それを名誉と受け止めて気持ちよくなる自然に生まれる考えのようにも感じる。

僕は子どもの頃からマンガが好きだったが、もっとも好んでいたのが望月三起也さんの『ワイルド7』というマンガだった。これは、毒をもって毒を制すというような発想で、もっとも凶悪な犯罪者に対しては、同じくらい悪いことを平気でやれるような者たちをぶつけて悪を退治しようとするものだった。7人の「ワイルド7」と呼ばれる男たちも悪人には違いないのだが、信念を持ったヤクザが素人には手を出さないのと同じように、彼らが戦うのは絶対的に悪だと確かめられた存在だけだ。

現実には善と悪を単純には線引き出来ないので、これはあくまでもフィクションの世界のマンガの中での話になるのだろうが、悪を退治する「ワイルド7」の活躍には、子どもだった僕は強く惹かれたものだった。

フィクションの世界では正義は絶対的な強さをもっている。水戸黄門のようなものだ。絶対に負けない正義が、強い力(暴力)で悪を退治するのは、単純ではあるが溜飲を下げることの出来る姿だ。しかし、これは現実の世界で成り立つものではない。現実の世界はそれほど単純ではないし、たいていは正義の方が弱い。もし力での制圧を正当化してしまえば、フィクションの世界と反対に、たいていは悪の方が力で正義を制圧するということになるのではないかと思う。

これは、力による正義の実現を良しとすることの弊害であると思う。力によって実現しようとする正義は、ほとんどがフィクションの嘘である場合が多いのではないかと思う。アメリカのイラク攻撃にしても、それはフィクションの正義を実現するための力の行使だったような気がする。

合理的に考えれば、力による正義の実現はあり得ないと思えるのに、心情的にはそれに惹かれてしまうと言うということにはどうしようもないものを感じる。どういう歯止めをかければ力による正義の実現の暴走を食い止めることが出来るだろうか。

かつて学校に校内暴力の嵐が吹き荒れたとき、その暴力を抑えるために、より強い暴力による秩序を求めた教師たちがいた。彼らの力による秩序は、確かに学校から校内暴力を一掃した。しかし、そのことによってもたらされた弊害はいくつか指摘されている。

一つは、力による正義が、必ずしも悪だと確認されている者たちだけを抑えたわけではなかったことだ。すべての子どもたちが力による支配を受けてしまい、子どもたち自身が主体的に判断する能力を育てられなくなった。力による制裁を恐れて行動するだけで、本当の意味での道徳や倫理観を育てることに失敗したと思う。力による支配が取れてしまったときの反動が、予想以上にひどいものになる恐れがあるだろうと思う。

また、校内暴力の沈静とともに、学校では陰湿ないじめが蔓延するようになった。これは力による支配の弊害が形を変えて現れたように僕には思えるのだが、因果関係を認めたくない人もいるかも知れない。

旧日本軍では力による支配が絶対的だったといわれているが、ここでも弱いものに対するいじめは日常茶飯事だったと語られている。力による支配と、それをストレスに感じた人間が、より弱い存在にそのストレスの発散を向けるというのは、充分に因果関係が成立するものではないかと思う。たとえ民主的な雰囲気を持っている軍隊といえども、軍隊では力による支配というものがあるはずなので、その弊害としてのいじめがあるようなら、いじめと力による支配の因果関係は確実にあると言えるのではないかと思う。

力による支配には弊害があると言うことは合理的に捉えることが出来る。しかし、だからといって力による支配をすべて否定してしまうと、それは無政府状態を生み出し、結局国家権力に取って代わるような力がもっとひどい支配をする状態が生まれる恐れもある。力による支配が弊害を生むとしても、それが回避出来るように、もっともましな支配として国家権力をコントロールするという道が、民主主義としては現実的な選択かも知れない。国家権力を否定するのではなく、それをコントロールする道を見つけなければならないという感じだろうか。

はてなダイアリーでのわどさんの書き込みで、権利と権力の問題が書かれていた。権利というのは大事な考え方ではあるけれど、それが一つの力となり、他者を支配するものとしてふくれあがってくると、権力的な働きを持つ可能性が出てくる。

人間にとって不当な差別をされないというのは権利として大事なことだ。しかし、差別糾弾という力が、他者の自由を脅かすような力を持てば、それは権利の主張ではなく、他者の支配のための権力に転化してしまう。そうなれば、正当な行為であった差別反対というものが、弊害を生み出すような力の支配に変わっていく恐れがある。

弊害を生み出すメカニズムというのは難しいものだろうが、これは深く考える価値があるのではないかと思う。特に、力による戦いが必要な場面が想定されるときは、どんなときに力を行使することが正しいのか、どんなときに弊害を生むのかという具体的な知識を持ちたいものだと思う。

それにしても、戦いがもたらす快感というのは、男には強く本能として残っているのを感じる。土日は撮りためた映画のビデオを見ているのだが、ブラッド・ピットの「ファイトクラブ」という映画を昨日見て、僕はこれに強く惹かれるものを感じた。

特に惹かれたのは、戦いそのものに引きつけられていく男の姿だった。彼らはもはや勝ち負けにもそれほどの関心がない。むしろ結果が出るまでの殴り合いで、自らが充分戦ったかどうかという点が、彼らが生きているかどうかという感覚に通じているということに僕は強い印象を受けた。

ファイトクラブに集まってくる男たちは日常世界では生きているという感覚を失っている。彼らが生きているという充実感を取り戻せるのは、唯一殴り合いをしている間だけなのだ。そして、それはかなりのリアリティを持って僕にも共感出来ることだった。

他人を傷つけることに快感を感じているのではない。むしろ自分が充分に戦っているということに快感を感じている。自らが傷つくのは、その快感を身体に刻みつけていることであり、少しもつらいことではない。そして、相手もそのように感じているだろうということで、共感しあい仲間としての連帯感も生じる。勝敗が決したときには、相手の勇気をたたえるような不思議な友情さえ芽生える。憎しみや残虐性から暴力を求めているのではないのだ。

暴力は絶対的に否定されなければならないと考える人もいるだろうが、暴力に魅力を感じる男もいると思う。それが男の大部分を占めるのか、それとも少数派なのかは分からない。もし少数派でないとしたら、暴力否定の考え方からだけで戦争に反対するのは難しいのではないかと思う。暴力というのは大きな弊害をもたらすものであるにもかかわらず魅力的なものだと思う。だから、問題はそれを無条件で否定するのではなく、何が弊害をもたらすメカニズムなのかを深く知って、その弊害を生み出すメカニズムを否定しなければならないのではないかと思う。

僕は殴り合いに魅力を感じることで、自分の中の男という性質を強く感じた。