繰り返し読むことで理解が深まることについて


宮台真司氏の「連載・社会学入門」という文章を、もう10数回読み返しているだろうか。読むたびに新たな発見が出来るということもあり、読み返そうというモチベーションが生まれてくるのだが、新たな発見が出来るということは前に読んだときに比べて理解が深まるということでもある。

繰り返し読むことで理解が深まるというのはいつでも起こることではない。マルセル・プルーストの『失われたときを求めて』は10数回とはいかないが10回近く読み返そうとした本だ。しかしいずれのときも最初の50ページほどで挫折した。何度読んでも理解が深まっていくのを感じない。その面白さがさっぱり分からなくていつも挫折してしまう。文章としては同じようにわけのわからなさを感じるサルトルなどは、面白さは理解できるので何とか読み通すことが出来るので、プルーストについては感性が合わないのだなというのを感じる。

プルーストは文学なので理解の対象ではないかもしれないが、マルクスの『資本論』なども10数回挑戦してなかなか第1巻を読破することが出来ない。これは100ページを越えるところくらいまではいくのだが、そのあたりで大体挫折する。なかなか理解が深まっていかないなというのを感じてしまう。

宮台氏の文章の難しさは、プルーストマルクスに匹敵すると思われるのに、「社会学入門講座」は、読み返すたびに理解が深まるのを感じる。いったいどこが違うのだろうと思う。もしこの現象が整合的に理解できるなら、プルーストマルクスを理解するための技術として応用が出来るかもしれないと思う。教育においても反復練習というものが実りを与えてくれる条件というものが見つかるかもしれない。

ドリル的な反復練習は、仮説実験授業研究会でもずいぶん研究されたが、これが苦役のようにいやなものになるとあまり効果は生まれない。罰として計算ドリルなどを与えれば、たいていは計算が嫌いになり結果的には出来なくなってしまう。ドリルをすることが面白くて喜びを与えるような与え方が出来ないだろうかというのが、仮説実験授業研究会が求めていることだった。

ドリルのような単純作業と、文章読解のような複雑な学習には構造的な違いがあるかもしれないので、とりあえずは文章読解の場合に限って考察してみようかと思う。まずは経験的に単純につかめるのは、以前に読んだときの自分と、繰り返し読み始めた自分とでは、いろいろな意味で変化をしているということだ。

内田樹さんが、文章を読むときに若いころにはさっぱり分からなかったものが年をとると分かるようになることがあるというのをどこかで語っていた。それは、年をとって経験をつめば、辞書的なことばの意味に隠されたもっと豊富な具体的なことばの意味が分かってくるからだ。若いころは辞書に書かれている表面的な意味しか受け取れないが、年をとればそれが立体的な構造をもって捉えられる。そこが理解の深まりになってくるということだ。

自分の成長があれば、繰り返し読むときは理解が深まるというのは、簡単に分かることではあるが真理の一つだろう。そういう意味では、『失われたときを求めて』と『資本論』を読む前提としての自分の成長はまだ足りないのだなという感じもする。だが、この真理は技術としてはうまく使えない。自分が成長するというのは、ある一定の手順を踏めば出来るということではなくなるからだ。自分への道徳的な戒めや励ましにはなるが、法則性をつかんでいる感じはしない。数学系的な理解ではなく、芸術系的(これは宮台氏と江川氏は「文学系」と呼んでいたようだ。同じような意味だ)な理解に感じる。

技術的な応用として使えるような形にするには、前回考えたソシュール的な発想が役に立つのではないかと感じた。内田さんの表現によれば、「他人のことばが使えるようになる」という感じだろうか。宮台氏の文章を、辞書的な意味でのことばの意味として受け取っている限りでは、それは宮台氏という「他人」のことばとしては受け取っていない。むしろ無色透明の、誰でもない「普遍性」のことばとして受け取っているようなものだ。

これを宮台氏という「他人」のことばとして受け取るにはどうしたらいいだろうか。そのためには、宮台氏が語ることばの一つ一つを、辞書的な意味とはつながってはいるが、特殊な意味を持つものとして、その特殊性を受け止めるようなことがなければならない。

たとえば「連載第一回:「社会」とは何か」という文章では、表題にあるとおり「社会」というものを説明しているのだが、最初この文章を読んだときはこの「社会」ということばは、宮台氏という「他人」のことばとして受け取ってはいない。これは自分がイメージする「社会」ということばとして受け取っている。あるいは、とりあえず辞書で引いたときの一般的な意味として受け取っている。

僕の場合で言えば、多くの人が集まって共同で生活しているような場を想像して、そのような全体をぼんやりと「社会」として眺めていたような感じだ。それは不特定多数の人々が集まっているようなイメージで、対象としてはその属性がよく分からない不明なものという感じはしていた。

しかし、この文章には「「社会」とは、私たちのコミュニケーションを浸す不透明な非自然的(重力現象などと異なる)前提の総体のことです」と書かれている。つまり、宮台氏はここで表現されている意味で「社会」ということばを使っているのである。それは高度に抽象された概念として語っているのであって、具体性が捨象されるという過程を経て意味が確定されている。そうであれば、その過程を同じようにたどらないと「社会」ということばを、宮台氏という「他人」のことばとして受け止めることは出来なくなる。

ことばを「他人」のことばとして受け止めるというのは、他人と同じ対象を見ることが必要になる。宮台氏が見ている「社会」と同じものが見えてきたら、それを的確に表現している宮台氏のことばも理解できるようになる。しかし、対象を物質的な側面としてしか捉えなければ、それは同じものを見ていると勘違いしてしまうのではないか。

内田さんが語った例でいえば、「デビルフィッシュ」と「エイ」に関して、対象としての実体は、われわれは「同じもの」を見ることが出来る。しかし、その対象を「デビルフィッシュ」と呼ぶ人と「エイ」と呼ぶ日本人である自分は、実体としては「同じもの」を見ながら実は意味の違う「違うもの」を見ていることにならないだろうか。同じでありながら違うという弁証法的な構造がここにはないだろうか。

もしこの対象を、他人のことばとして受け止めようと思えば、「デビルフィッシュ」ということばで対象を切り取るというようなことが必要になってくるのではないだろうか。それは、実体としての対象をただ白紙の状態で眺めるのではなく、「デビルフィッシュ」ということばの語彙をある種の「先入観」として対象を眺めることを要求してくるのではないだろうか。

ことばを「他人」のことばとして受け止めるというのは、そこではいったん自分の見方というものを否定して、まさに相手と同じことを追体験するために、相手になったつもりで世界を眺めるということが必要になるのではないかと思う。三浦さんのことばで言えば「観念的な二重化」というものになるだろうか。

宮台氏は「ある時代まで「社会」概念そのものが存在しなかった事実を思い出す必要があります」ということも語っている。ということは、宮台氏が語る「社会」は、ある時代以後に登場したもので、大昔の人々の暮らしの中では見つからなかったものだ。そこで人々が共同的な生活をしていて、自分にとっては「社会」らしきものが見えてきそうに感じても、その感じを否定しなければならない。また、比喩的に「ミツバチの社会」などと、動物に対して「社会」ということばを使うことも、宮台氏の観点からすれば否定されなければならない。

「社会」ということばで語られる現象のいくつかが否定されるということは、そこである種の捨象がされ、残されたものが抽象されているということを意味する。ここから抽象の過程を読み取り、宮台氏と同じものを眺めるという経験が深まっていくのを感じる。

「社会」ということばは、実はこの入門講座のすべてを読み終えて初めてつかめる概念でもあったのだ。どのようにして「社会」ということばを抽象していくかという過程を説明したものが入門講座であるといえるものだった。だからこそ繰り返し読まなければ理解が深まらないものだったのだ。1回読んでぼんやりと理解したものを、2回目では、その理解を基礎にしてまた読み始めることによって、最初読んだときよりも理解が深まるのだと思う。

文章を理解しようと思えば、その著者の視点で対象を眺めなければならないというのは必須の条件だが、その前提としては自分の持っている言葉の概念をまず否定するというのは一つの技術にならないだろうか。「社会」ということばに対しては、自分は今までの生活で一定のイメージを持っており、自分なりの概念を持っている。それをまずは否定して、宮台氏が語る「社会」というものを、最初はぼんやりとした状態でつかむのだが、それを出発点にして理解をはじめるというやり方がある種の技術になるのではないだろうか。第1回の講座におけるぼんやりとしたイメージは、

  • 「ある時代まで「社会」概念そのものが存在しなかった」
  • 「この概念が誕生したのは革命後のフランスのことで、革命の挫折(第一共和制から第一帝政まで)についての深刻な疑問が出発点にあります」(革命後のフランス以前には、自分にとってはいかに「社会」らしく見えるようなものがあっても、それを「社会」と呼ぶのは否定しなければならない)
  • 「個々人から見通しがたい不透明な全体性」(「社会」はよく分からない対象ということ)
  • 「「社会」とは、私たちのコミュニケーションを浸す不透明な非自然的(重力現象などと異なる)前提の総体」


というものになる。このぼんやりとしたイメージで、改めて「社会」らしきものを眺めてみて、宮台氏が語る「社会」が本当に「社会」だと思えるようになったとき、宮台氏のことばを「他人のことば」として受け止めることが出来るようになるのではないかと思う。

自分を否定して他人と重ねるというのは、考えてみると結構つらいことである。それは、その他人をかなり尊敬できなければ耐えるのは難しい。宮台氏が語ることだからこそ、理解するために自分を否定して重ねられるのだと思う。

だから、ある文章を批判的に検討するというのはかなりつらいことだ。それは自分が否定したいものに同化して、肯定したい自分自身を否定しなければならないからだ。そのようなことが正確に出来る人間は少ないだろう。批判的なことを書きたくなると、相手に同化せずに、相手を自分の視点で切り取るようになる。これでは多分相手は納得しないだろう。論争というものが実りのないものになる原因はこんなところにもあるのではないかと思う。尊敬できる相手と異論が存在するとき、本当に実りある論争が出来る可能性があるのではないかと思う。