ことばは「ものの名前」ではない


「ことばは「ものの名前」ではない」というのは、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』という本の中の一章だ。そこでは構造主義の先駆者としてのソシュールの業績を紹介している。

ソシュールについては僕はよく知らなかった。三浦つとむさんが批判している文脈に出てくるソシュールしか知らなかったといっていいだろう。構造主義についても、三浦さんが批判する文脈におけるものしか知らなかった。いずれについても、一度はもっとよく理解したいと思って、ソシュール構造主義について書かれた本を読んでみたのだが、さっぱり理解できなくて、やっぱり三浦さんが批判するような観念論的な妄想なんだろうかと感じたものだ。

しかし、何かが僕の中で引っ掛かりを持っていた。ソシュール構造主義も、現代思想の中ではもっとも優秀だと思われる人々がとりこになったものだ。それが単なる妄想だとはどうしても思えなかった。誰かが、これらの本当の価値を教えてくれるような文章を書いていないだろうかと思っていた。そのような思いに十分すぎるくらい応えてくれたのが内田さんの『寝ながら学べる構造主義』だった。

内田さんの著書で初めて手にしたのがこの本だった。これを読んで以来僕は内田さんのファンになった。その後、手にするどの本もすべて僕を満足させてくれるものだったが、この本に最も愛着を感じると言っていいかもしれない。何回も読み返している本だ。そして、読み返すたびに新たな発見をもたらしてくれてもいる。

繰り返し読むことで理解が深まっていくというのも学習理論的に興味あることで考えてみたいと思うが、特に理解が深まったように感じるのが、内田さんが語るソシュールのすごさというものだ。他のソシュール解説の本を読んでも少しもそのような感じを受けないのに、内田さんが語るソシュールには、言語の本質を知らせてくれるようなすごさを感じる。構造主義とともに、ソシュールもやはりすごいところがあるというのを改めて教えてくれるという感じだ。

三浦つとむさんは、ソシュールの欠点を的確に批判して、三浦さんの観点から考える言語論における分析は済ませていると思うのだが、ソシュールは、三浦さんと違う言語の性質を解明したのではないかと僕は感じている。それが内田さんのこの本の解説から読み取れるような気がした。表題に書かれたような意味がようやく分かってきた感じがする。

ソシュール以前には、ことばは「ものの名前」と考えられていたようだ。内田さんは次のように書いている。

「アダムの前に野の獣が連れて来られます。それを見て、アダムは「じゃ、これは牛、これは馬、これは犬」というふうに名前をつけてゆきます。
 まず「もの」があり、ただ名前がついていないだけなので、人間がこちらの都合で、後からいろいろ名前をつけること、それがことばの動きである、というのが『創世記』に語られている言語観です。これをソシュールは「名称目録的言語観」と名づけました。」


これは、ある意味では唯物論的な発想で見ているように感じる。物質的存在がまずあり、それを認識して後に言語で表現するということが、物を名前で呼ぶということに当たるような感じがする。これを否定し、ことばは「ものの名前」ではないというと、ある意味では唯物論を否定しているようにも感じる。唯物論を基礎にしていると、それだけでソシュールは間違ったことを語っているように見えてしまうだろう。

だが内田さんは「しかし、本当にそうなのでしょうか。「まだ名前を持たない」で、アダムに名前をつけられるのを待っている「もの」は、実在していると言えるのでしょうか」と疑問を提出する。これは、表面的に解釈すれば、名前を持たない・まだ人間に知られていない「もの」は存在していないのだと主張しているようにも聞こえる。つまり、人間の認識のほうこそが基礎にあって、それが存在を支えているのだという観念論の主張のようにも聞こえてしまう。

このような観念論的な主張は、唯物論の立場からすれば間違っているように見えるだろう。しかし、唯物論というものが科学のような真理ではなくて、発想法の一つだと受け止めれば、ある場合にはその反対の観念論的発想のほうが真理に近づけることもあるのではないかと考えられる。内田さんのソシュール解釈は、まさにそのような場合ではないかと僕には思えるようになった。

言語規範というものを、まったく抽象的に捉えて、人間存在と切り離して、物質的対象と規範との結びつきという面だけを見れば、それは物が存在してその後に名前をつけたように対応付けることも出来る。これは、数学で言えば関数を定義するような感じになる。定義域としての物質的存在の集合に対して、値域としての「ものの名前」の集合を対応させると、その関数は「ものの名前」としてのことばを与える。

しかし、ここに人間存在というものを含んで考えると、人間はすでに言語規範が確立した社会の中で、言語を学びながら「ものの名前」を知るという構造があるのではないだろうか。具体的な個人にとって言語規範は、作られつつあるもので、すでに出来上がった完成したものではないように感じる。完成した言語規範というのは、抽象的に捉えた抽象的な対象として存在するだけのような気がする。

個人にとっては完成していない言語規範なのに、社会の中で生きている人間は、すでに抽象的には完成した言語規範が存在する中で言語を学ぶという状況にある。言語規範は個人で作り出せるものではない。社会が長い歴史をかけて作り上げたものだ。

だから、個人は、何かものを認識してその後にものに名前をつけるということはない。まったく知られていない新しいものを見たときでさえ、「何か分からないもの」とか「知らないもの」あるいは「○○のようなもの」という言い方で言語規範に従った表現をするしかない。ものは、ことばで表現されることによって、初めて人間に認識されるものとなる。

これを、ことばで表現される以前は「存在していない」と呼ぶのは、観念論的な言い方になる。だが、このときにも唯物論を貫徹して、人間に知られていないときにもそれは存在している、というのは「存在」という概念としては果たして妥当だろうかという疑問が僕にも浮かんできた。

知られていないものは、いつか知られるときがくれば、その「存在」を人間は確認することが出来る。しかし、永久に知られるときがこなかったとき、それでもそのものは「存在」しているといえるのだろうか。もしそう言えるなら、カント的な「物自体」も存在していると言わなければならないのではないかと思う。

このような「存在」は、僕は「存在」ということを問題にする対象にならないのではないかと思う。ウィトゲンシュタイン的に言えば、語りえぬものとして沈黙していなければならない対象ではないのだろうか。そのような意味で、「名前をもたない」もの、つまり知られていないものは、実在の範疇に入れないということを「実在していない」と表現してもいいのではないかと思うようになった。

このような逆転した発想でことばを眺めると、ことばがあるからこそものが存在するという発想も出てくる。内田さんが語る例は、フランス語の「ムートン」と英語の「シープ」「マトン」などだ。あるいは英語の「デビルフィッシュ」と日本語の「エイ」と「タコ」だろうか。日本人には「エイ」と「タコ」は実在しているが「デビルフィッシュ」は実在していない。しかし、英語という言語を学んだ人間は、今まで実在していなかった「デビルフィッシュ」が実在するようになる。

この知見がさらに新しい発見とつながるのは、「私たちは「他人のことば」を語っている」という内田さんの指摘だ。ことばがものの名前ではないとしたら、名前という言語規範を知っていることによって、われわれは世界に対する認識を広げていく。そして、その名前はわれわれが個別に創ることが出来ない、まさに「他人のことば」としての規範に縛られている。原理的に「他人のことば」を使わざるを得ないのが、社会の中で成長していく人間ではないのだろうか。

この知見は、ことばの学習という面でも新たな発見を感じさせてくれる。言語規範というのは、それだけでは辞書の中のことばのように、具体的な意味を持たない。具体的な意味は、具体的な場面で誰かが表現したことばによって与えられる。辞書を見るだけではわれわれは意味の何たるかを知ることは出来ない。誰かとのコミュニケーションの場面を体験することで、ことばの意味というものをつかんでいく。ことばの意味は、「他人のことば」を使うことで学習されていく。

内田さんは、このようなことばの持つ「意味」というのを、経済学における商品の「価値」と「有用性」の比喩で語っている。「有用性」というのは抽象的に語ることが出来るが、「価値」は条件や場面によって変わってくることが分かる。内田さんは次のように書いている。

「たとえば、ボートの「有用性」は「水に浮く」ということですが、その「価値」は状況によって変化します。タイタニック号沈没間際と晩秋の湘南海岸とでは、「同じ有用性」を持つボートでもおのずと「価値」は違ってきます。」


「有用性」は変化の幅が小さいけれど、「価値」は変化の幅が大きい。言語規範も社会で通用している辞書的な意味の変化は小さい。しかし、実際にことばが使われたときの具体的な意味は、時と場合によっては正反対になるような変化さえ起こす。

ソシュール的な発想というのは、人間が対象理解をしたり、それを基礎にして思考を進めるときの言語の機能というものを際立たせて教えてくれるのではないだろうか。それは、言語の持つ一つの側面であるコミュニケーションを行うということに関しては、あまり深い知見をもたらしてくれないかもしれない。しかし、理解や学習・思考という側面における言語の機能に関しては、かなりいろいろなことを教えてくれるのではないだろうか。また、その機能を捉える本質において言語規範がかなりの重要性を持っているのではないだろうか。

ソシュールが解明したかったことが、コミュニケーションの側面よりも、人間の思考や学習という側面だったら、ソシュールが言語規範のほうをこそ言語と呼びたくなる理由が整合的に理解できるのではないか。そんなふうにも感じる。いずれにしても、内田さんによってソシュールの再評価が出来たような感じがする。他の人が指摘するソシュールの優れた面というのも理解できるようになりたいものだ。