人間の主観を客観的に理解できるか


主観と客観は対立するものとして現前する。主観は、ある個人の頭の中に存在するもので、その個人を離れて外に飛び出すものではない。それに対して、客観と呼ばれるものは、個人との結びつきを断ち切って、個人とは独立に存在するものとして対象化される。だからこそ、個人の単なる思い込みではなく、誰もがそれを同じように対象として認識できるので、その属性を誰もが認めうるような一般性を獲得することが出来る。

個人の好き・嫌いに関する感情は、客観性をまったく持たない主観だけの範囲で語られてもかまわないものだ。好き・嫌いという感情は、そのこと自体が悪いというような価値判断は出来ない。その感情が生まれてくるのはある意味では仕方のないものとして受け止めなければならない。

例えば、ある芸術作品が自分の好みに合っているという、好きという感情は自分の主観である限りでは、誰も間違えるということはないだろう。この、好みの感情は、個人の生育暦などに影響されて決まってくるものだと思われるが、かなり偶然性の高いものだ。同じ環境で育っているように見える個人でも、その好みはまったく違うということがありうる。

好きか嫌いかという感情は自分にはよく分かるが、自分が好きな芸術作品が、芸術として水準の高いものであるかという判断は難しいものがある。好みのものは優れたものであってほしいという願いは誰にでもあるだろうが、優れているというのは、主観を離れた客観性も欲しいと思うからだ。

主観を離れる一つの方法は、判断の基準を、人間の意志とは独立に存在する物質的存在の属性のほうに見出すことだ。芸術として優れているかどうかを、それを鑑賞する人間の感性の方に依存するのではなく、芸術そのものの物質的属性として捉えることで客観性を獲得しようという方向だ。

芸術の優秀性を、鑑賞者の感性に依存すれば、感性が優れている人間が高く評価する芸術は優れたものであるという結論になる。そうすると、芸術作品の優秀性が、鑑賞する人間の感性の優秀性に置き換えられるだけで、優秀性を判断する基準そのものは何も解明されていないことになる。極端なことを言えば、優れていると「思った」ものが優れているということになる。

それは、誰がそう「思うか」ということで優秀性が判断されることになり、そう「思う」人間自体の鑑賞能力の優秀性には客観性はない。言語ゲーム的に、みんながそう認めているから、鑑賞能力が高いと評価されているだけかもしれない。

もともと芸術の評価自体に客観性がないのだ、と割り切って考えるなら、すべては主観的な判断に過ぎないと受け止めて済ますことが出来る。たまたま多くの人に気に入られた芸術が、その時代に高く評価されるに過ぎないのであって、時代が変われば評価も変わったりする。そのように割り切って、考えれば、芸術の評価というのは科学にはなりえないのだと受け止めればいいだけの話かもしれない。

主観の範囲で判断して差し支えない対象・客観的基準が見出せる対象・客観的基準が見出せないので主観的にしか捉えることの出来ない対象、等々を意識して自分の周りを眺めることで、科学的な認識を高めていくことが出来るのではないかと思う。自然科学の対象は、主観をほぼ完全に排することが出来るので、100%客観的な科学が成立するといえるのではないかと思う。

社会科学の対象は、人間が作る社会という存在にかかわってくるので、100%主観を排することが出来ない。これが、科学という客観性を獲得するというのはいったいどういう意味を持っているのだろうか。これは、自分の主観ではない、他者の主観というものを、あたかも自然科学の対象であるかのように客観的対象として取り扱うことが出来るかどうか、ということが科学性としての意味を持っているのではないだろうか。

大塚久雄さんの『社会科学の方法』(岩波新書)では、マルクスの疎外概念についての記述があったが、そこでは人間の集団の行動が、個人の主観ではコントロールできないもの、あたかも人間の意志とは独立して存在する自然のような存在になることが語られていた。これが、まったく予測不可能な偶然性だけの対象なら、科学の対象にするのは難しい。客観的に成立する法則性がない対象は、結果を解釈するしかないので、科学として未来を予測するような認識にならない。

しかし、人間は確率論というすばらしい道具を見つけたおかげで、個人の主観としての予測は、その偶然性から言ってまったく予測が出来ないが、それが大量に集まった集団になった場合は、偶然性が法則を持つという認識を獲得することが出来た。

確率論においては、主観がまったく働かないような対象においては、いわゆる場合の数が最も多いと考えられる現象こそが、確率的に実現されるという風に考えられる。場合の数というのは、起こりうる現象のすべてを考察の対象として、可能だと判断された現象のすべての数を言う。これが確率的な事象だということは、それが起こりうる可能性がすべて同じ頻度で起こると考えられることを意味する。同じ頻度で起こるなら、その数が最も多いと考えられる現象が現実には起こるはずだと、論理的に結論されるわけだ。

しかし、現実は確率論にしたがって現れるのではないから、確率的には起こりうる可能性が低い場合が実現される。社会学は、そこにあるシステムが存在して、普通(確率論的)には起こりえないことが、システムの機能として定常的に実現されているのだと捉える。そして、人間社会がそのような機能を持っているということは、そこに主観というものが働いていることを予測させ、多くの他者がどのような主観を抱いているかということが、確率論的にもシステム的にも重要な考察となってくるのではないかと思われる。

人間の主観というものが、自分の主観である限りではそれは客観性を持つことは出来ない。どこまでも、自分個人の主観としてしか存在し得ない。また、他者の主観であっても、それが具体的な誰かの主観である場合は、それもまた客観性というものを持つことが出来ない。それはいつでも特定の主観にならざるを得ない。主観が客観性を持つというパラドックス的な言い方は、個人性・具体性を捨象した、一般的・抽象的な他者の主観という対象を立てられる時に言えるのではないかと思う。

昨日のニュースでは、母親を殺害して、その頭部を持って自首してきた高校生についての衝撃的なものがあった。この高校生の主観を、この高校生個人に則して理解しようとすれば、それは解釈以上のものは出てこないだろう。なかなか客観的な理解というものは出来ないのではないかと思う。それこそ、理解を超えた行動だということで、「狂っている」と思いたくなるかもしれない。おかしな人間がおかしな行為をしたという理解は、それが正しいかどうかにかかわらず、論理的には納得できて落ち着くことが出来るからだ。

心を静めて落ち着くことが目的ならこれでもいいかもしれない。しかし、今後そのような事件が起こらないようにしたいと考えるなら、この事件を客観的に理解するカギを探して、その処方箋を客観的に正しいと思える解答として見つける必要がある。それは出来ることなのだろうか。

この高校生個人の主観を、多くの他者の主観として抽象することが出来るだろうか。その一つのヒントになるようなものを、『教育「真」論』(ウェイツ)というシンポジウムをまとめた本の中の、宮台真司氏の発言の中に見つけた。そこでは、「なぜ我々は人を殺せないように育つことが出来るのか」について語られていた。それは、

「結論から言うと、自己形成の過程で、他者との社会的なコミュニケーションを通じた試行錯誤によって、「承認」を獲得することが必要不可欠な生育環境で育つことが、大切なのです。そうすれば、人は「自分が自分であること」「自分が価値を持った存在であること」と、「他者の存在」「社会の存在」が分かちがたく結びついたものとなるわけです。」


と解説されている。一般的には、このような生育環境で育てられた「主観」が、「人を殺せないように」働くことになる。この「主観」がなければ、ある意味ではランダムに「人を殺せるような」人間が生まれてくることが予想される。どのような確率値でそのような人間が存在するかはわからないが、システムとして、そのような人間を排除できるという保証はなくなる。「承認のシステム」があれば、確率的には起こりえない、「人を殺せないように育つ」ということが定常的に実現するのだという論理だ。

この論理は、主観というものを見事に抽象して客観的対象にしているように見える。また、この考察からは、「人を殺せるように」育ってしまうシステムの変化というものも論理的に導くことが出来る。これは、意図的には、戦争を行う兵士の教育において「日常的なフレームを書き換えることで」意識を変えてしまうということが行われる。社会においても、日常的なフレームが知らないうちに変わってくると、どこかで意識が変わる可能性が出てくる。宮台氏の指摘は次のようなものだ。

「こうした育ちあがり方が、我々が営んできた社会における通常的な生育のプロセスだったとするならば、最近になって、その一部ないしは大半がスキップされるようになっている可能性があります。それが処方箋を考える上でのポイントになると思います。自己形成のプロセスで、他者との社会的な交流が必要不可欠ではないような生育環境。むしろ、他者との社会的交流とは無関係な尊厳を獲得できるような生育環境。そうしたものが広がることにより、「自分が自分である」「自分が自分としての価値をもつ」ことにとって、他者の存在や社会の存在が無関連なものになっていく、ここにポイントがあります。」


このように抽象された「主観」の形成過程において、人を殺すということに対してブレーキとなっていた「主観」が育たなくなっていれば、確率的な現象として、何人かが「人を殺せるように」育っていくことになる。つまり、このような理解の元では、理解を超えていると思われた高校生のような存在は、まったく特殊な「おかしな」存在ではないと言わなければならない。今の社会システムの元では、そのような人間が生まれてくるのは整合的に理解できてしまう。人々は、社会システムそのものに目を向けて深刻に受け止めなければならない。

もし、このような考察が客観的に正しいものなら、今後いくらでもこのような人を殺せる人間が出現してくるだろう。おかしな人間を主観的に切り離して問題が解決するのか、社会システムの手当てという方向で問題が解決するのか、この後の方向を見なければならないだろう。社会システムの手当てという方向を取るならば、多くの人がそのことに関心を持って社会を変えていかなければならない。民主主義制度のもとではそうしなければならないだろう。

主観を客観的に理解するというのは大切なことだと思う。自分の好む方向、自分の主観的判断と世の中の動きが違った場合は、特にこのことを理解することが大切だろう。世の中の多数は今右傾化をしている。これに対して主観的な反発を感じる人もいるだろうが、右傾化している多数派の主観を、他者の主観として抽象化して、それが存在する整合性を理解することは、それを変えていく努力にとっても必要なことだ。そうでなければ、右傾化している人間が判断を間違えている、端的に言えばバカだという表面的な判断に陥るのではないかと思う。