教育は手段か目的か


教育を手段か目的かと考えるとき、それを自分にとってのもの・あるいは自分の子供にとってのものというふうに個人的な立場で考えると、個人にとっていいものという価値判断的な要素が入ってくる。そうすると、手段というのは何か価値的には貶めてしまうように感じるので、教育そのものが価値をもつような目的的なものとして捉えたくなるのではないかと思う。

しかし個人を基礎にして物事を考えると、個人によって感じ方の違うものは主観に左右されてしまい、客観的な判断というものが出来なくなる。科学的に扱うことが難しくなってしまう。教育を目的として捉えた場合、ある個人にとってはいいものが、別の個人にとっては最悪のものになる可能性もある。特にイデオロギーに支配された思考から目的が決まってくるような教育はその傾向が強くなるだろう。

これは右でも左でもそれほど違いはない。右にとっていいものである日の丸・君が代も、その押し付けを最悪の教育と捉える個人がかなり存在する。逆にいえば、左の側から正しい歴史だと思われるものも、それを自虐史観と呼んで、それを押し付けられることに大きな恨みを抱く個人がたくさんいる。

これは、現象的には押し付けることが間違いなのであるが、何故に押し付けが生じてしまうかといえば、それは教育を目的と捉えるところから出てくるのではないかという気がしている。教育が単なる手段に過ぎないものなら、そういう考え方もあるという程度でこのことを流してしまえる。そうすれば押し付けによる弊害もかなりなくなるだろう。教育というのは、社会的認識を高めるために多様な考え方を紹介しているに過ぎないのであって、このことを学ぶこと自体が目的ではないと捉えればいいだけのことになる。

教育を手段として捉えた方が、より客観的で科学的な捉え方だと感じたのは、『教育真論』(ウェイツ)という本の最後に書かれた「シンポジウムを終えて」という宮台真司氏のあとがきのようなものを読んだからだ。ここで宮台氏は、教育が手段か目的かという考察をしているのだが、それは二つに分岐する捉え方を重ねることで考察を展開している。

まずは教育が

  • 1 手段である
  • 2 そこで生じること自体が目的である

という二つの分岐があるが、もし教育を目的だと捉えるなら、考察はそこで停止してしまう。教育において生じること自体がいいものである・人を幸せにするという価値判断が出来れば、それは全面的に肯定され、それ以上のことを考える必要はなくなる。日本において人々に感動を呼び起こす学校ドラマは、たいていがこのような発想で教育を捉えていたのではないかと感じる。

映画「二十四の瞳」や昔の学園ドラマは、僕もそれを面白いものとして見ていたものだった。感動する場面もたくさんあった。しかし、「金八先生」のころには、僕もそれなりに大人になっていたので、そのドラマ構成にはちょっとした違和感を抱いていた。この舞台は、何も学校でなくてもいいだろうという思いを感じた。人間同士の深い結びつきを描くのに学校という舞台が便利だというのは分かる。しかし、学校においてそのような深い人間関係が作られることが理想だというのは、現実の学校を見ている限りでは嘘ではないかという感じがしていたのだ。

内田樹さんは、かつて、「二十四の瞳」の大石先生は教師としては無能であり何一つ出来ない先生だったと書いていた。しかし、ここでの大石先生と生徒たちとの心の結びつきの深さは大きな感動を呼ぶ。金八先生も、その授業の場面をあまり見たことがないが、その国語の授業は必ずしも上手なものには見えない。生徒との心の結びつきがあるから、つまらない説教でも耳を傾けてもらえるが、もしその前提がなかったら平凡なつまらない授業をする国語教師に過ぎないだろう。

日本では、学校で幸せに過ごすために、教師との深い関係が必要で、それさえあれば学校での目的が達成されたとも言えるのではないだろうか。そして、教師の影響によって学習のモチベーションも上がる。しかしこれは教育としてはどうも変な感じがする。

個人的な相性が合うかどうかはまったく偶然性に支配される。たまたま相性の合う先生と出会えばいいが、そのような幸運はまれではないのだろうか。むしろ、学習する内容との相性で学習のモチベーションが高まるというほうがはずれが少ないのではないか。学習する内容は、長い歴史を経て絞り込まれていく可能性があるからだ。仮説実験授業は、学ぶに値する対象があれば、必ず仮説実験授業として楽しい授業が実現できると自信を持って主張している。それは、個人的な資質というあたりはずれではなく、論理と歴史という客観性を基礎にしているからだ。

宮台氏は、考察の止まってしまう「目的としての教育」ではなく、「手段としての教育」をまた二つに分岐させて考察を進めている。それは、

  • 1−1 子どもの幸せのための手段としての教育
  • 1−2 システムの回転のための手段としての教育

これも価値判断的には、1-1のほうが価値が高いような気がして、そちらのほうを選びたくなってくるが、子どもの幸せというものが客観的に決定できないので、これもそちらのほうは客観性がなく、科学的に扱うことが出来ない。また、子どもの幸せのためという手段は、ここから分岐する考察の方向に問題がある。それは次の二つの方向が考えられるのだが、「かつては両者が重なることが暗黙の前提だったが、今は通用しない」と宮台氏は指摘する。

子どもの幸せの場による分岐

  • 1−1−1 学校での幸せのための手段としての教育
  • 1−1−2 社会での幸せのための手段としての教育

学校での幸せが、例えば学校で高く評価されることであれば、その評価がそのまま社会でも通用したのがかつての時代だった。だから、その幸せは学校卒業後も続き、両者が重なっていたといえる。しかし、今の時代は、学校優等生が社会ではむしろ通用しなくなってきている。学校で過剰適応するような学校優等生は、社会では使い物にならない、幸せになれない人間になってしまっている。これは、「子どもの幸せのための手段としての教育」が破綻していることを意味しているのではないかと思う。

これは、幸せというものがもともと主観的なものであり、時代とともに変わっていくものであれば、ある時代に適合した幸せ観が今の時代では通用しなくなるということは十分ありうることである。主観にはそういう面がある。ある程度の時代を通じて通用するような普遍性をもったものにするには、主観ではなく客観性を基礎にした観点が必要になるだろう。

この普遍性を持った客観的な観点、すなわち科学としての教育の捉え方は、次のようなものになるだろう。

  • 1−2−1 学校的な合理性の手段としての教育
  • 1−2−2 社会的な合理性の手段としての教育

宮台氏は、「社会システム理論家である私」すなわち科学者である自分としては、「1-2-2の立場。すなわち「教育を、社会システムにとって合理的な人材を生み出すための手段とみなす立場」から教育を論じると語っている。この二つの観点は、それが矛盾しない限りではどちらも合理的であり、問題を生じないだろうと思う。

しかし、学校的な合理性が、社会にとって害悪になる場合が存在する。必要のない末梢的な知識を詰め込むという教育は、子どもたちに勉強を嫌わせるという効果を生ずるという点で社会にとっては害悪となる。勉強を嫌いになった子どもたちは、大人になってから物事を深く考えることをしなくなり、衆愚政治に荷担することになるからだ。

しかし、学校的な合理性から言えば、各教科の教員にとっては、自分が教えることが末梢的で必要のない知識だと判断することが難しい。それは、専門家にとっては大事だろうが、専門家でない人間にとってどれほど大事であるかということが難しい判断になる。学校的合理性からは、たとえ末梢的だと思えるような知識であろうとも、教えることが大事だと結論付けられるかもしれない。

このような時、どちらの合理性が優先するかという原則があれば判断が客観的になる。これは、もちろん社会的な合理性が優先されなければならないだろう。社会の存在があってこそ学校の存在があると考えられるからだ。学校が社会に先行して存在することはあり得ないからだ。

科学的・客観的に教育を捉えるには、それが「社会的な合理性のための手段」であると定義したほうが有効な定義になる。主観的には、この定義に違和感を感じる人がいるかもしれないが、それはこの定義に価値観を含めるからではないかと思う。科学的・客観的という方向性は、価値判断を離れなければならない。この定義は、統治権力が資本主義の存続・発展のために都合のいい人間を育てるということを「社会的な合理性」と捉えれば、ジョン・テイラー・ガットさんが批判するような学校になる。しかし、自分の頭で考える人間を作ることを「社会的な合理性」と捉えれば、むしろガットさんが主張するような教育こそが正しいと主張できる。

この定義は、価値判断からはニュートラルなので、どちらの価値を実現するためにも役立つ。ある立場のために貢献するということはない。立場を越えているという点で、この定義は客観的だといえるのだと思う。

宮台氏は、「しばしば組合系の教員たちが掲げる「心の理解」や「一体化」」が教育において生じること自体を目的とみなす態度の典型だと指摘している。このことが、何かの手段として捉えられていれば弊害は少ないのだが、このこと自体が役に立つ・立たないにかかわらず、そこでの幸福感として作用することが目的になれば、金八先生的な教育が理想となる。しかし、このようなものが実現するというのは、今は妄想に過ぎないのではないだろうか。妄想を理想とするのは、必ず大きな弊害を生むのではないかと思う。心は、もはや理解や一体化が出来ないほど多様化しているのが、現代社会の特徴ではないだろうか。それを教員に求めるのは、教員への無用な圧力であり、子どもたちにも絶望感をもたらすだけではないのだろうか。

宮台氏は、社会に何に役立つのかとは無関係に「教育を、子どもが学校で幸せに生きてもらえるための手段とみなす立場」ないし「教育において生じる理解や一体化を先見的に価値あるものとみなす立場」を「時代錯誤的な宗教臭」と断じている。そのような教育は、おそらく師弟関係という特殊な関係が生じるような教育では生まれるのだろう。しかし、公教育という大衆教育においてはないものねだりであり、そのようなものを理想として掲げれば、誰もそれが実現できないという妄想に過ぎないものになってしまう。

教育は手段で十分だ。しかし、それが手段に過ぎないものであっても、フィクションの世界では「陽の当たる教室」という映画で、現実にはジョン・テイラー・ガットさんの教育で、深い感動を与える実践を見ることが出来る。僕は、手段として役立つ技術を伝える能力を持った教員のほうが、人間的に深い付き合いが出来る教員よりも、教育の能力は高いと思う。教育というのは、あくまでも普遍的・抽象的な営みであり、個人的な心情の世界の物語ではないと思うからだ。