法則的認識について


板倉聖宣さんが、「武谷三段階論と脚気の歴史」という文章の中で武谷三段階論に関して語っているのだが、その中の「法則的認識」という言葉が気になった。

武谷三段階論というのは、科学的認識の発展段階を三段階に分けて、その必然的移行について語ったものだが、それはあらゆる認識について語ったものではなく、「科学的認識」について語ったものだ。それは、板倉さんが指摘する「法則的」ということが重要な要素を占める認識になる。

人間の認識は、外界を捉えて理解する心の働きを指すのだが、それはすべてが法則的であったり科学的であったりするわけではない。むしろそのような高度に抽象された認識は難しく、たいていは感覚的・感性的な理解にとどまることが多い。人間の認識の中でも、限定された「法則的」なものとしての科学の発展が三段階という特徴を持って発展していくというのが武谷三段階論であって、法則的でない認識は、たとえそれがどのように対象の深い特徴を捉えようと、三段階論とはまったく無関係なものになると理解したほうがいいだろう。

武谷三男さんは、三段階論を研究の指針を示すものとして、自らの研究段階がどこにいるのかを客観的に理解するための道具として提出した。板倉さんがこの文章で注意しているように、主観的に「本質を目指すのだ」と決意しても、その決意ではどうにもならないのであって、本質論的段階に至るには、実体論的段階を克服して越え出るという条件が必要だ。また、実体論的段階も、現象論的段階を越えるということがなければそこに至ることが出来ない。

ところが、現象論よりは実体論のほうが、実体論よりも本質論のほうが何となく価値が高いような気がするので、決意だけはそこを目指したくなる感情が生まれる。この決意をすることを板倉さんは強く戒めている。この決意は、すべて武谷三段階論を間違って理解させるきっかけになるというのだ。

現象論的段階よりも、実体論的段階のほうが発展段階が上だからといって、そこを目指したいという気持ちを持てばそこにいけるのではなく、むしろ現象論的段階を徹底させることでそれを越えるきっかけがつかめるのだと板倉さんは言う。現象論を徹底させずに言葉の上だけで実体論に進み、本質論の法則だけを覚えても、認識は少しも上の段階に行っていないのだ。

武谷さんは、研究者として三段階論を発見したが、教育に携わる人間としては、法則的認識の教育に当たって、本質論的段階の認識にまで学習を高める方法としてこれを利用できないかと思う。本質論的段階というのは、文章で表現してしまえばまったく単純で簡単なものになる。弁証法の法則にしても、この三段階論にしても、言葉の上ではまったく単純化される。ニュートン運動方程式も簡単な数式になる。

本質論的段階の結果だけを記憶するのはそれほど難しいことではない。しかし、それを本当に本質論的段階の認識として受け取るというのはたいへん難しい。この学習の発展の段階も、三段階論のようなものをヒントに得られないかと思う。

板倉さんは、脚気の歴史を引いて「現象論的段階」というものを説明している。森鴎外を始めとする東大のエリート医師団が、現象論としての、脚気に有効な麦飯というものを最後まで認識できなかったのは、現象論に徹底できずに、現象論を飛ばして本質論に行ってしまったことにあると僕は理解した。

麦飯が脚気に有効だというのは、軍隊での経験やさまざまなデータを見ればすぐに分かることであるのに、その有効性は、偶然他のことが重なり合ったことの結果であって、麦飯そのものに脚気に有効な性質があるのではないというのが、東大エリート医師団の認識だったらしい。そこには法則的認識が現象からは捉えられていなかったのだ。

東大エリート医師団は、病気は何らかの病原体が原因として起こるものだというのを、医学の本質論として持っていたのではないかと思う。この本質論の解釈が、現象がそれに反する結果を出していても、その現象を現象論的に法則として認識できなかったのではないかと思う。

現象論的段階というのは、また自分の感覚を大事にする段階でもあると思う。まだ本質論的認識が出来ていないものにとっては、理由はわからないけれど、現在目の前に見える現象をそのまま理解することからまず考察を出発させるということが大事なことなのだろう。その理由が本当に分かるのは、現象論的段階を克服し、実体論的段階も克服して、本質論的段階に至ったときに出来るのだという見通しを持って考えることが大事だろうと思う。

また、板倉さんは、武谷三段階論における法則的認識ということの重要性も語っているように感じる。三段階論は、法則的認識における発展を問題にしているのであって、法則的でない認識については、三段階論はまったく無関係であると理解したほうがいいのではないかと思う。

板倉さんは「感性的認識」という言葉を使っているが、これは現象論的認識とは、対象の捉え方が違うように感じた。現象論的といった場合は、あくまでも対象は、意志とは独立に存在する客観的対象であって、その記述も、それをどう感じたかという自分の主観を語るのではなく、対象の客観的属性がどうかということを語らなければならない。

感性と言うと、自分の主観というか、個性というものが深くそこに反映してしまう。つまり、誰もが同じように判断できるものではなく、自分にはそう見えた・感じられたというようなものを語ることになってしまう。板倉さんは、これを「ちょっとおっちょこちょい的な感じ」と表現している。早飲み込みというか、表面だけを捉えて即断するようなところが見られるからではないかと思う。

感性的認識では法則性を捉えることが出来ずに、現象論的段階にさえも至らないということではないかと思う。この感性的認識というのは、科学の研究を発展させたり、科学の理論を理解するという学習においては、それをうまくこなすことが出来ずにかえって邪魔をすることになる。しかし、目的が科学の研究や学習でなければ、感性的認識にとどまることは少しも悪いことではない。自分の感性に素直に従って芸術鑑賞などは行われるべきだろうと思う。どんなに有名で高い評価を得ている芸術でも、自分の感性に合わないものは「つまらない」と表現してもかまわないのだと思う。

現象論的段階を問題にするのは、あくまでも法則的認識の発展においてであり、そうでない時は価値がないとして否定する必要はない。しかし、本質論的段階というものが何か価値が高いもののように思われていると、すべての認識が三段階論的に発展しなければならないような気もしてくる。これは、そういう気がしてくるのが間違いであって、感性的認識で済ませていい場合と、法則的認識を求める場合とを分けて自覚しなければならないのだと思う。

このような観点で考えると最近気になるのは世間で騒がれている「朝青龍問題」だ。朝青龍についてどう判断したらいいかというのは、法則的認識の問題ではない。誰もがよく考えれば同じような判断に落ち着くというところはない。誰もが自分の感性に従って、「けしからん」と思ったり「かわいそう」だと思ったりするだけだ。あるいは、利害関係のある人間たちは、どう転んだほうが自分の利益になるかということを考えるだけだろう。

日本の伝統である相撲の価値観から言ったら何が正しいかというような判断が出せる問題ではない。立場が違い、感覚が違えば違う結論が出るのはしょうがない問題だ。結果的には、相撲界において力を持っている人間たちの多数がどう判断するかで落ち着くような問題だろうと思う。

それが、テレビのワイドショーなどを見ていると、いかにも朝青龍が相撲の伝統にもとる行為をして、相撲を貶めているかということが客観的な事実であるかのように語られていることに違和感を覚える。これは、いろいろな意見があって当然の問題であるし、どれか一つに決められるものではない。自分の感性に従ってもいいし、理屈として納得できるものを求めてもどちらでもかまわないだろうと思う。

とにかく朝青龍が嫌いだからけしからんと思う人がいてもかまわない。問題は、それが客観的に正しいのだという認識を持たないことだと思う。僕自身は、朝青龍が気の毒だと思う。横綱が一人しかいない時代は、彼の活躍で散々儲けさせてもらった相撲界が、彼に代わる横綱白鵬が出てきたら、用済みとして捨てられているように感じるからだ。朝青龍横綱の品格を要求する前に、このような姿勢は、人間としての品格においてはどうなのかという感じがするからだ。

現在の相撲はビジネスであり、もはやスポーツとも呼べないようなショーになっているのであり、それに武道としての品格を要求するほうが時代遅れだろうと思う。こんなものを武道だと認めるのは、武道の品格を貶めることにもなるのではないかと思う。武道であれば、かつて南郷継正さんが『武道の理論』の中で語ったように年6場所では多すぎると思う。武道として精進する余裕がなく、勝負だけにこだわるような相撲になってしまうだろう。また、巡業といえば聞こえはいいが、それは武道とは程遠い見世物であり、まさにショーではないのか。そんなことをするよりも、体を休め、武道として精進する鍛錬に時間をつぎ込んだほうがいいのではないかと個人的には思う。

いずれにしても、このようなものも僕の感性的認識であり、いわば個人の勝手な放言に過ぎない。だから、それを何か権威ある真理を語っているのだと捉えない限りでは、何を言おうと自由だろうと思う。それが感性的認識というもので、法則的認識とはまったく違うものになるだろう。

朝青龍問題については、それが何か一つの正しい結論を出せるというような対象でないことはすぐに分かるので、それが感性的認識という「おっちょこちょい的な感じ」であることはすぐ分かるだろうと思う。しかし、「正義」というようなものが絡んでくる対象では、これが滑稽さを隠して感性的認識が理性的認識(法則的認識)のように感じられる場合が出てくる。

その最たるものは、「南京大虐殺」と呼ばれる対象ではないかと思う。あの歴史的事実に対して「大虐殺」という言葉で表現するのは、それが「感性的認識」であることを告白しているのではないかと僕は思う。感性的認識が、それが客観的な真理と呼べるものではないという自覚があれば、それは感性に従って語るのは自由である。しかし、それが反論を許さない真理だと主張するなら、感性的認識であっては困る。

小室直樹氏は、「大虐殺」というような情緒的・感性的な言葉を、「違法に殺されたもの」と定義しなおして、法解釈という論理的に結論を出せる事柄で判断して、「違法ではない」すなわち「虐殺ではない」という主張をしようとしているように僕には見える。

このことを感性的認識にとどまって、「虐殺だ」「虐殺でない」と議論するのは意味がない。感性である以上、そう感じる人間がいても仕方がない。そして、「虐殺」という言葉は、感性で捉えることしか出来ない言葉だろうと思う。この歴史的事実を「虐殺」という言葉で語っている間は、どちらの主張が語られても仕方がないだろうと思う。問題は、これを感性的でない認識で捉えられるかということだ。小室氏の試みはその一つだろうと思う。僕は、小室氏の論理を受け入れながらも、これを「虐殺」という言葉で語る限りでは、感性的認識を免れないのではないかと思っている。感性という主観を、どのようにして客観に転換するかが課題だと思う。