論理トレーニング 14 (議論の組み立て)


議論の組み立ての訓練として提出されている問題を考えてみよう。まずは例題として出されている次の問題だ。

例題1 次の文章をより論理的に明確になるように接続関係を明示して書き直せ。
「現在の金融引き締め政策は、海外諸国の好況に支えられた輸出の伸びから貿易収支の好転をもたらしたが、中小企業倒産の異常な増加や株式市場の危機などを招き、産業界からは引き締め緩和の要望が高まっている。」


この例題の文章は、野矢さんによれば、このままでも必ずしも意味が分かりにくいということはないと指摘されている。しかし、それはこの文章が表現する内容をあらかじめ知っているからそういうことが言えるのだということも指摘されている。もし、この内容に対して、そこで使われている用語を知らなかったり、現実のこの状況がうまくイメージできないと、とたんにその内容が読み取りにくくなる。そのような相手に対しても、論理構造は見えてくるように工夫するのが適切な接続詞の使用になる。すでにこの内容を理解した相手に確認のために問いかけるのではなく、初めてこのようなことを考える人間が、その論理的内容を理解する助けになるように書き換えよというのがこの問題のトレーニングになるだろう。

適切な接続詞を使うためには、それぞれの主張の論理関係をつかまなくてはならない。そこで上の文章で書かれていることを、それぞれの主張が分かるような命題の列に分解してみよう。番号をつけると次のような命題が引き出せるだろうか。

  • 1 現在の金融引き締め政策は、海外諸国の好況に支えられた輸出の伸びから貿易収支の好転をもたらした。
  • 2 中小企業倒産の異常な増加や株式市場の危機などを招いた。
  • 3 産業界からは引き締め緩和の要望が高まっている。

この3つの命題は論理的にはどのような関係になっているだろうか。1と2の間には「が」という言葉が使われていて、これが逆説的なつながりを示していると考えられる。ここには接続詞として「しかし」がふさわしいだろう。「貿易収支の好転」は「倒産」や「危機」と対立する、逆説的に転換する主張のつながりを示していると思われる。

3の「要望」に関しては、事実としてはそのようなものが観察できるということだろうが、論理的にはそれの前の命題から引き出せるかどうかということが問題になる。つまり、1や2が3の根拠になっていると判断できるかどうかが問題だ。

これは、1の命題からは「引き締め」の成果が語られているものの、2の命題からは、その「引き締め」が「倒産」や「危機」を招いているのだと受け取れるような表現になっている。1の命題は「引き締め」がよい結果をもたらしたといっているので、「引き締めの緩和」というものは出てこないだろう。あえて良いものを排除して悪くしたい、というのが人間の心理として常にあるのなら別だが、そうは言えないだろう。良いものは持続し、悪いものを排除したいというのが、自然な流れであり論理としては真っ当だ。

そうであれば2は「倒産」や「危機」が語られているのだから、それが「引き締め」からもたらされたと考えるなら、「引き締め」が効果を出す範囲を越えて行き過ぎたのだという主張がそこから垣間見えてくる。そう考えれば、この2から論理的な帰結として「引き締めの緩和」という要望が出てくることになるだろう。2が3の根拠になっているとしたら、ここの接続詞は「それゆえ」というようなものがふさわしくなる。

あと1の主張において「から」という言葉が使われている。この言葉は根拠を示すものとしても使われる。つまり、1は次の2つの命題に分解できる。

  • 1−1 現在の金融引き締め政策は貿易収支の好転をもたらした。
  • 1−2 海外諸国の好況に支えられた輸出の伸びがあった。

1−2は1−1の根拠として語られているから、これは「なぜなら」というような接続詞がふさわしいだろう。以上の考察をまとめて接続詞を補って問題文を書き換えると次のようになる。

  • 1−1 現在の金融引き締め政策は貿易収支の好転をもたらした。「なぜなら」
  • 1−2 海外諸国の好況に支えられた輸出の伸びがあった「からである」。「しかし、このことは」
  • 2   中小企業倒産の異常な増加や株式市場の危機などを招いた。「それゆえ」
  • 3   産業界からは引き締め緩和の要望が高まっている。

このように書き換えると、最初の印象よりもその論理構造が際だってはっきりしてくるのを感じる。また、もしこの構造が違うものであるなら、その間違いも際だってくるだろうから、自分の主張に対してこのように接続詞を補って表現してみることは、自分が何を考えていたかをはっきりさせることにもなるだろう。表現としてはくどくなり、名文とは言えなくなるが、そのような文学的な味わいを犠牲にしても、なお論理的な明快さがほしいというときは、あくまでも接続関係をはっきりさせる表現で書くべきだと思う。

この例題に関して野矢さんは次のような解答例を提出している。

「現在の金融引き締め政策は、「なるほど」海外諸国の好況に支えられた輸出の伸びから貿易収支の好転をもたらしたが、「しかし他方で」、中小企業倒産の異常な増加や株式市場の危機などを招き、「そのため」産業界からは引き締め緩和の要望が高まっている。」


野矢さんの模範解答は、原文の表現を忠実に生かしながら接続詞を補う形になっている。これは上級になればそのような訓練がいいだろうが、初級者のうちは、僕がやったように、全く書き換えて論理構造をはっきりさせるという方がいいような気もする。複合命題を単純な命題にした方が論理関係がはっきりするような気がするからだ。

なお問題の文章についてもう少し考察を進めると、このように接続詞を補って書き直すとそれがかなりわかりやすくなることは確かだが、それでもやはり「すでに理解した者の目」と「これから理解しようとする初級者の目」では、まだその理解に差があるように感じる。

なぜなら、「貿易収支の好転をもたらした」根拠と見なされている「海外諸国の好況」というものが、単純にすぐ論理的な結びつきを持っていると理解できるかどうかにちょっと引っかかりがあるからだ。海外諸国が好況であれば、確かにものをたくさん買ってくれそうな気はする。そのため、貿易収支は良くなりそうには思うのだが、もしそれだけの論理関係なら、「金融引き締め政策」と関係なく貿易収支は好転してしまうのではないだろうか。そうであれば「金融引き締め政策は」と語るときの「は」はどういう意味を持っているかということが引っかかる。

この助詞の「は」は、そこで語られている主題を表す「は」ではないだろうか。「海外諸国の好況」が「貿易収支の好転」の原因であることは見て取りやすいが、これに「金融引き締め政策」も必要不可欠なのだという認識はなかなか難しい。しかし「は」はそういう内容を語っているのではないだろうか。必要不可欠でなかったら、「金融引き締め政策」をわざわざ「は」という助詞で表現しないのではないだろうか。

また、「金融引き締め政策」が中小企業の倒産を招くというメカニズムは、中小企業の資金繰りが難しくなるというイメージから、その論理的なつながりを理解することができる。これはわかりやすいだろう。しかし、「金融引き締め政策」が「株式市場の危機」を招くというメカニズムはどうだろうか。これはすぐにはぴんとこない。そんなものなのかなという漠然とした理解にとどまる。

もし「株式市場の危機」が現象を観察した結果としてもたらされるだけで、「金融引き締め政策」とは無関係に起こっているなら、ここでわざわざ「金融引き締め政策」を主題にした主張で語る必要はない。何らかの論理的つながりがあるからこそ、ここで表現されていると受け取った方がいいだろう。この論理的なつながりは、説明されないと、それを知らない人間には分からない。

最後の要望の高まりが論理的に導かれることについては、「金融引き締め政策」が悪い結果をもたらしているのだから、それを緩和してもらいたいという要望が出ることに論理的な整合性はある。これは問題文の説明でも十分理解できる論理構造だろう。

文章というのは、相手がどのレベルで内容を理解できるかを考えて表現されるものになるだろう。何かを証明せよと言われて、「それは自明だ」と語るだけで相手も了解するなら、コミュニケーションとしての表現では十分だ。だが、もっと説明が必要な相手に対しては、説明をしなければ伝えたいことは十分伝わらない。相手によって表現を工夫するということも論理トレーニングの一つになるのではないかと思う。

論理トレーニングの応用として『バックラッシュ』(双風社)という本に収められている斎藤環さんの内田樹批判を検討しようと思うのだが、これに違和感を抱く原因の一つとして、説明の不十分さというものがあるのを僕は感じる。

斉藤さんは、僕のような読者がその文章を読むことを想定していないのかもしれないが、僕には、ここはどうも論理的なつながりがよく分からないなと思うところが随所に見つかる。そこが本当にそう主張できるのか、内田さんや三砂さんの原文に当たって確かめてみないと分からない、と思うような箇所がたくさんある。

斉藤さんは、内田さんや三砂さんのフェミニズム批判を「素朴な印象論」と指摘しているが、説明が不十分で結論だけを提出しているものは、同じように「素朴な印象論」と言われてしまうのではないかと思う。それが「素朴な印象論」であるということが、斉藤さんが引用する部分だけでは十分説得されないのだ。「なぜ」の説明が不十分だと感じる。「これを読んだら分かるでしょう」というようなニュアンスを感じるような引用になっている。もっと説明してくれなければ分からない。

「なぜ」が説明できるということは、その論理構造を正しく捉えて言語化できるということだ。言語化できないときは「なぜ」を語ることが難しくなる。そして、言語化できない「なぜ」を、実体を提出するだけで読者にゆだねるのは「素朴な印象論」ではないかと僕は思う。「そういうふうに見えるでしょう」と同意や共感を求めているだけのように感じる。この違和感を、論理トレーニングを利用して考えてみようと思う。今、内田さんや三砂さんの原文に当たって、斉藤さんと同じような印象が生まれてくるかというのを考えている。