宮台真司氏の論理展開 5


宮台氏が語る『バックラッシュ!』での次の命題を考えてみよう。それは、

「丸山がインテリの頂点だったために亜インテリの反発を買った。」


という命題だ。丸山というのは丸山真男のことであり、個人名が語られた命題ではあるが、これは「一流の学者」の代表として選ばれている個人名であり、命題を一般化すれば次のようになるだろう。


<インテリの頂点にいる「一流の学者」は「亜インテリ」の攻撃を受ける。>


命題関数の形にすれば


<xは一流の学者である> →(ならば) <xは亜インテリの攻撃を受ける>


という仮言命題になるだろうか。このxに「丸山真男」を代入すれば宮台氏が提出した命題になり、これは正しい、真の値をとる命題だという主張になる。このxに任意の対象が入っても真になるなら、この命題は一つの科学的法則になる。論理構造をたどってそう結論出来るかどうかを考えてみたい。

まずそのために、結論の方の言明をもう少し厳密に考えようと思う。xについての任意性が法則性を考える上で大事なことになるが、「亜インテリ」についてもそれが任意の対象であるのかどうかは重要であると思われる。つまり結論の解釈が

1 <すべての亜インテリがxを攻撃する>

と考えるのか、

2 <xを攻撃する亜インテリが存在する>

と考えるか、どちらなのかで判断が違ってくるからだ。1の解釈では法則化出来ないと思われる。xを攻撃しない亜インテリがいてもおかしくないと思われるからだ。それは、宮台氏がリスペクトと呼んでいる尊敬感を持っているかどうかで違ってくる。亜インテリであっても、一流の学者を尊敬している亜インテリであれば、それは攻撃的にはならないだろう。

「亜インテリ」などという言う言葉を使うと、それは悪口のように聞こえるから、言葉のイメージから言って「亜インテリ」が一流の学者を尊敬すると言うことはあり得ないような感じがするが、「亜インテリ」という言葉に対して、そのような価値観を抜いて客観的な定義として考えてみるとそのようなことがあってもいいのではないかと僕は感じる。

バックラッシュ!』では宮台氏は「亜インテリ」を

論壇誌を読んだり政治談義にふけったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、あるいはアカデミックハイラーキーの低層に位置する者」


と説明している。この定義そのものからの論理的帰結として、必ず「亜インテリ」が一流の学者を攻撃するということは出てこない。攻撃性に関する言及が何もないからだ。それは、現実的には観察によって「亜インテリ」と「攻撃性」を結びつけることによって判断することになるだろうと思う。そうすれば、現実の存在にとって「すべて」を語ることは出来なくなる。

それが、自然科学の対象のように、人間の心と独立に法則性を持っているものならば、観察可能なものについては「すべて」そのように考えられるという法則性を求めることが出来るが、「攻撃性」というような心の問題に関わる性質は、どういう結果が出るかはまったく予想がつかない。その意味では「すべて」という判断をすることが出来ない。だから、法則性としては

2 <xを攻撃する亜インテリが存在する>

という、存在の確認をする法則性として捉えなければ、それは結論を出すことの出来る法則性にはならないだろう。一流の学者に対しては、必ずそのような存在を見出すことが出来るだろうか。このような存在の代表として宮台氏は簑田胸喜という人物を挙げている。一流の学者の問題は二流の学者の問題でもあり、丸山問題は簑田問題でもあるという見方だ。

簑田胸喜が代表として選ばれているのは、その社会的存在が大きくなったことにあるようだ。普通は一流の学者の方が、その重要性から言って社会的な地位は大きくなるはずだ。しかし、いろいろな偶然的な要素が重なって二流の学者の方が社会的地位が大きくなることがある。簑田胸喜のような存在が社会的に大きくなるのは、宮台氏によれば何十年おきかに起こることのようだ。だが、簑田のような存在がいるというのは、現象としてはコンスタントに見られるものらしい。

宮台氏は、亜インテリという存在を

「東大法学部教授を頂点とするアカデミック・ハイラーキーの中で、絶えず「煮え湯を飲まされる」存在です。」


と語っている。「煮え湯を飲まされる」ことが恨みにつながり、これが「攻撃性」につながるとしたら、論理的な流れとしては整合性があるのを感じる。「煮え湯を飲まされる」という感覚は、自分が不当に扱われているという感覚に通じるものではないかと思う。亜インテリにとっては、一流の学者といわれる人たちが、尊敬を集めて頂点に君臨することが、自分の位置と比べて不当に高い位置にいると映るのだろうか。

このあたりの心性を宮台氏は、「知識人も大衆もみんな同じ田吾作だ」という言葉で語っている。一流の学者が、その一流性ゆえに尊敬されているのではなく、みんな同じではないかと思えば、誰かが特別に高い位置にいるのは、それと比べて相対的に自分が不当に低い位置にいるように感じてしまうかも知れない。このような心性は、「田吾作の心情倫理」とも宮台氏は呼んでいる。

これは先進西欧諸国では見られない、日本的な特徴だとも宮台氏は語っている。「日本では欧州にあるような意味での知識人へのリスペクトが、存在しないのです」と語っている。もしリスペクトが存在していれば、一流の学者の地位の高さは当然のことになり、それを恨みに思う必要もなくなるだろう。攻撃性が生じる必然性はなくなる。

日本にリスペクトが存在しないのは、大衆の側に原因がある「田吾作の心情倫理」のゆえなのか、真にリスペクトに値する知識人が少なすぎるという知識人の方の問題なのかは難しい問題だと思う。一流の学者の一流性を理解するのは難しいからだ。

僕は宮台真司氏は一流の学者だと感じてリスペクトしている。それは、宮台氏の膨大な知識量と、それを正しく関係づけている論理能力の高さ、また現実観察能力の鋭い視点など、様々な点を総合して飛び抜けて優れていると感じているからだ。しかし、それはある程度宮台氏が語ることが理解出来るという前提があってそのような判断が成立している。宮台氏が語ることは大変難しいので、それを理解することが困難であれば、宮台氏が一流であるという判断そのものが難しいだろうと思う。

例えば、宮台氏が一流だと語る丸山真男に関して、僕は丸山真男の一流性を理解しているとは言い難い。それは、宮台氏が一流と語っているのでおそらくそうだろうという、宮台氏に対する信頼感から一流だろうと思っているに過ぎない。なぜなら、僕は丸山真男が語ったことを直接理解したことがないからだ。その著書は難しくて読み切れないからだ。

宮台氏が書くことも難しいが、宮台氏の書くことに対しては理解したいというモチベーションを強く感じるので、ある程度それを読んで理解することが出来る。だが丸山真男に関しては残念ながらそれほど高いモチベーションは今のところ感じない。だから、その一流性を本当に理解したとは言いがたいと感じている。

一流の学者が語るハイレベルの内容がハイレベルだと感じることが出来れば、自分もそのハイレベルに少しでも近づこうとするだろう。しかし、それがハイレベルであればなかなかそれに近づくことが出来ない。大きな努力にもかかわらず出来ないと言うことから、それを達成した一流の学者に対するリスペクトの感情が生まれてくる。

そういう意味では、リスペクトの感情にとって、そこに主張されている内容がハイレベルのものであるというセンスを磨くことは重要だろう。何がハイレベルで、何が末梢的なことかをかぎ分けるセンスが重要だ。仮説実験授業では、一流の科学者と同じ思考経路を追体験することで科学的な思考を身につけようとする。その経験が、科学としてハイレベルかどうかというセンスを磨くことに通じる。社会的なリスペクト感情を育てるには、そのような教育の問題も大きいのだろうと思う。

リスペクト感情があれば自分を一流の学者の領域まで引き揚げようという前向きの努力が生まれてくる。しかし、リスペクト感情がなければ、逆に一流の学者を田吾作のレベルにまで引き下げて、「みんな同じ田吾作だ」という感情を満足させる方向に行くのではないか。このような心性は宮台氏が次のように語ることにつながっているのではないだろうか。

「ようは、文化資本から見放された田吾作たちが、代替的な地位獲得を目指して政治権力や政治権力と結託し、リベラル・バッシングによってアカデミック・ハイラーキーの頂点を叩くという図式です。」


日本では論理的に正しいことがなかなか通用しない面を感じる。むしろ地位の高い方の主張が、地位の高さゆえに、吟味されることなく正しいと思われているような面を感じる。だからこそ、田吾作感情としては、論理的正当性よりも高い地位を先に求めると言うことになるのかも知れない。

誰が一流の言説を語っているかという判断は重要だと思う。テレビなどに出てくる知識人を見ると、ほとんどが二流ではないかと感じることがある。しかし、テレビに出ているという知名度や肩書きなどの地位で、その主張を正当だと勘違いする人が多くなっていないだろうか。権威を頼りにするのではなく、その内容を吟味して正当性を判断する道を考えたいものだ。そのためには、やはり「論理」というものの理解が必要なのではないかと感じる。