論理
接続の構造は、野矢さんの解答を見ても、それが正しいと確信するのに苦労するところがある。全体の構造というのは、単に部分である言葉(接続詞)だけを見ていても分からないところがあり、文脈というものを読み取る必要があるからだろう。この文脈というや…
さて、接続詞の選択では、接続詞の前後の文章の論理的関係が考察された。これが「接続の構造」と呼ばれる章では、接続詞の前後だけではなく、ある主張を主題に持ったまとまりのある文章の全体に関して、論理的な接続関係の構造を捉えようというものになる。…
さて、解答のない課題問題を引き続き考えてみよう。まずは次の問題だ。 問4-3 「日本でも、玄関の戸は現在では引き戸ではなく、ほとんどがドアになった。 <しかも/しかし>、 欧米と同じようなドアでありながら、欧米と異なっているのは、外開きであることだ。…
野矢さんが提出する次の問題を見てみよう。 問3 「風土そのものが持つさまざまな特徴は、具体的に人間の生活と結びついて我々自身の特徴となる。 (a)<それゆえ/たとえば> 稲およびさまざまの熱帯的な野菜や、麦およびさまざまの寒帯的な野菜は、人間が自…
さて、接続詞を選択する野矢さんの次の問題は以下のようなものだ。 問1-3 「地球を周回している宇宙船の中では無重量状態であり、それゆえ「軽くなった空気が上昇する」とか「重い空気が下がる」ということはない。 <しかも/したがって>、 宇宙船の中で…
今までは、野矢茂樹さんの提出する例題を考えてきたが、今度は本格的な練習問題を考えてみよう。例題では、野矢さんの解説にほぼ同意できたのだが、練習問題では気分的に違う答えを選びたくなる感じが沸いてくる。それだけ練習問題のほうが難しいということ…
東京新聞の「ガソリン税暫定税率 2008年1月27日 朝刊」という記事に書かれている、自民党・民主党双方の主張に対して、その論理の流れを分析してしみようと思う。その接続詞の使い方などから、その論理がどのような流れになっているかを見てみたい。まずは、…
野矢茂樹さんが提出する問題を詳しく考えていきたいと思う。まずは次の問題だ。 問題 次の文章において適切な接続表現を選び、どうしてそれが適切であり、他方が不適切なのかを説明せよ。「人間関係をその結びつき方の形式によって分けると、「タテ」と「ヨ…
野矢茂樹さんの『論理トレーニング』(産業図書)という本で改めて論理について考えている。野矢さんは、この本の冒頭で「「論理」とは、言葉が相互に持っている関連性に他ならない」と述べている。論理とは、極めて言葉に深いかかわりのあるものなのだ。だ…
僕は、ウィトゲンシュタインの哲学の理解に対して、直接ウィトゲンシュタインの著作から学ぶのではなく、野矢茂樹さんや橋爪大三郎さんの解説から間接的に学んでいる。それは、ウィトゲンシュタインの哲学というのは、直接その著作から学ぶには難しすぎるか…
算数・数学教育では、「応用問題」というものが課されることがある。これは、基本的な計算技術を学んだ後で、その計算を実際に応用して答えを求めようとするような問題を考えるものだ。計算して答えを出すだけなら、これには深い理解はいらない。アルゴリズ…
カール・ポパーの「反証可能性」という言葉を、必要条件と十分条件という観点から考えてみようと思っている。「反証可能性」という概念は、その考察の対象が「科学である」ということに関して必要条件となるが十分条件ではないというようなことを考えている…
沖縄の集団自決という深刻な問題についてちょっと触れたので、何らかの反応が返ってくるかと思ったが、それにちょっと疑問を差し挟んだだけで罵倒するようなコメントが送られてきた。このコメントについては、論理的な対話など出来ないと判断したので反映さ…
ウィトゲンシュタインの世界においては、「事実」から切り出されてくる「対象」は単純なものに限られていた。それは、その「対象」の像として設定される「名」という言語表現が、論理空間を作る要素として取り出されるからだ。現実世界から論理空間を作り出すとき、…
ウィトゲンシュタインが「対象」の単純性について語っていることを理解するのは案外難しいのではないかと感じる。それは、存在という属性をどう捉えるかということと深く関わってくる。「対象」というのは、世界を構成する「事実」から切り出されてきた要素として…
論理語「ならば」について野矢茂樹さんが『『論理哲学論考』を読む』で語っているのは、その真理領域の関係についてだ。「AならばB」という命題があったとき、Aを真理とする状況である真理領域が、Bを真理とする状況であるBの真理領域にすべて含まれて…
shさんという方から「『論理哲学論考』が構想したもの6 論理語は「名」ではない」のコメント欄に、弁証法における矛盾という概念に対する違和感を語るコメントをもらった。僕も形式論理からスタートした人間だけに、若いころは弁証法が語る矛盾に大きな違和感…
野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』の中で、否定を表す「ない」について、それが現実に「対象」を持たないことを指摘していた。これは現実に「対象」を持たないので、「対象」の像として定義されている「名」ではないこともそこで指摘されている。…
野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』では、否定の「ない」という言葉は「名」ではないという考察がされていた。つまり、否定表現に相当するような「対象」が現実に存在しないということが指摘されていた。否定は、「事実」から「対象」が切り出され、…
ウィトゲンシュタインが語るラッセルのパラドックスの解決は、数理論理学を勉強してきた人間にとっては実に意外な展開での解決になる。ラッセル自身は、タイプ理論というものを創設して、パラドックスの原因となるものを排除することでこのパラドックスを解…
ウィトゲンシュタインは、現実の「事実」というものから出発して、まだ現実化してはいないが、その可能性があるものを見るということを思考の働きとして想定しているように感じる。人間の認識の積極面を思考というものに見ているようだ。そして、思考の限界…
ウィトゲンシュタインは、現実世界を出発点として、そこから思考の原理を引き出そうとする。この現実世界は、「事実」を集めたものとして想定され、物という「個体」を集めたものとは考えられていない。野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』という本の中…
野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本を頼りに、ウィトゲンシュタインが構想した世界の全体像の把握というものを考えてみたいと思う。ウィトゲンシュタインのような天才と同じ考えをもつというのは、かなり無謀な目標のように思われるかもしれ…
僕は以前は、論理の正しさといえどもそれはやはり経験から得られるものだと思っていた。論理は、この世界の捉え方として、最高度の抽象ではあるが、それは現実を捉えたものであることは確かだから、論理は現実との一致を究極の目標として展開されるものだと…
シカゴ・ブルースさんから送られてきた「0の概念・マイナスの概念」と「概念は「言語」に先立つ(5)」というトラックバックを読み返すと、どうも議論がかみ合っていないなというのを感じる。おそらくシカゴ・ブルースさんも同じように感じているのではないか…
野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本によれば、『論理哲学論考』におけるウィトゲンシュタインの論理空間というのは、意味を持つすべての命題を寄せ集めたものというイメージで読み取れる。ウィトゲンシュタインは、これらの命題を「事態」と…
シカゴブルースさんから「マイナス概念の形成」というトラックバックをもらった。この中で、シカゴ・ブルースさんは、僕の「数学的法則性とその現実への適用」というエントリーの中で語っている、「マイナスというものがそもそも想像上の対象である」ことと、…
微分という数学の計算が運動の表現であることは、ある意味では自明のことだとも思われる。それは、ニュートンが自らの力学の解析に利用するために発明した計算であり、ニュートン力学は、動力学として運動の解析をするものだからだ。だから、その生まれてき…
哲学者の野矢茂樹さんは『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(哲学書房)という本の中で、論理を「語りえぬもの」と書いている。論理というのは、ある事柄が正しいことを示すのに使われるが、論理そのものの正しさを問題にされることがない。む…
数学教育で難しいものに、アルゴリズムが確立されているものを論理的に正しいということをよく納得して理解するということがある。それは、アルゴリズムが確立されているので、手順さえ覚えれば必ず正解を導くことが出来る。それが正解であるということを理…